打开主菜单
明朝关西八卫和东察合台汗国(亦力把里)对峙
东察合台汗国早期地图(1372年)

东察合台汗国英語:Eastern Chagatai Khanate;1347年–1570年,一说1347年–1680年),波斯人稱為蒙兀兒斯坦波斯語مغولستان‎‎,拉丁轉寫:Moġūlistān),由察合台汗国分裂。

察合台汗国在14世纪中期,由于西部河中地区和东部伊犁河流域的社会经济生活方式不同,分裂成两个部分。东部以传统蒙古游牧社会为主,西部被伊斯兰化突厥贵族控制。第23任可汗合赞算端被突厥贵族杀後后,秃忽鲁帖木儿在东部并立为汗,不服从突厥人所立的答失蛮察,但是他也皈依了伊斯兰教。并于1361年攻克河中,废黜西部可汗铁穆尔沙,统一了汗国。他死后,其子也里牙思火者于1365年退回伊犁,察合台汗国再次分裂,不久后,西部汗国被帖木儿帝国取代。

东部汗国在中国史籍以国都为名,先后称为别失八里唐朝庭州北庭都护府,今新疆吉木萨尔)、亦力把里歪思汗之后,即伊犁,今新疆伊宁市)、吐鲁番也密力火者速檀阿力之后,即唐朝的西州高昌,今新疆吐鲁番市)。1570年吐鲁番汗国最后一任大汗马速与同是察合台系的叶尔羌汗国交战被俘,东察合台汗国正支汗统结束。

东察合台汗国汗速檀阿黑麻之子赛德于1514年建立叶尔羌汗国,它于1570年吞并吐鲁番汗国(东察合台汗国正支汗统),亦可认为是东察合台汗国的延续(若持此说则1570年叶尔羌汗国吞并吐鲁番汗国则可认为是东察合台汗国内的又一次东西部统一,而这样的统一在汗国历史上出现过多次)。叶尔羌汗国至1680年被准噶尔汗国灭亡,东察合台汗国历史彻底结束。(现一般对叶尔羌汗国的历史单独进行研究。)

东察合台汗国统治者编辑

别失八里
亦力把里
吐鲁番
叶尔羌汗国

参考文献编辑

  • 江上波夫『中央アジア史』(世界各国史, 山川出版社, 1987年1月)
  • 加藤和秀『ティームール朝成立史の研究』(北海道大学図書刊行会, 1999年2月)
  • 川口琢司「ティムールとトクタミシュ―トクタミシュ軍のマー・ワラー・アンナフル侵攻とその影響」『北海道武蔵女子短期大学紀要』40収録(北海道武蔵女子短期大学.2008年3月)
  • 佐口透「モグリスタン」『アジア歴史事典』9巻収録(平凡社, 1962年)
  • 中見立夫濱田正美小松久男「中央ユーラシアの周縁化」『中央ユーラシア史』収録(小松久男編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2000年10月)
  • 濱田正美「モグール・ウルスから新疆へ 東トルキスタンと明清王朝」『東アジア・ 東南アジア伝統社会の形成』収録(岩波講座13, 岩波書店, 1998年8月)
  • 間野英二「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号収録(東洋史研究会, 1964年6月)
  • ルスタン・ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』収録(加藤九祚訳, 東海大学出版会, 2008年10月)
  • 『中央ユーラシアを知る事典』(平凡社, 2005年4月)、556-557頁収録の系図