- 1941年(昭和16年) 计划在マル急計画中进行建造
- 1942年9月29日 在横須賀海軍工廠开工建造
- 1943年6月30日 下水,船籍编入吴镇守府
- 1944年6月8日 竣工。訓練に従事後
- 9月20日 编入第15潜水战队
- 10月15日 从吴港出港,航向菲律宾東方
- 10月24日 LST1隻を撃沈(実際は撃破?)。据日美官方记录,翌25日護衛空母「サンティー」(Santee 桑加蒙級護衛空母11400吨)に対し特攻機と共同攻撃により撃破したとされる。しかし、両軍の時間的な照合では「サンティー」の僚舰である「彼得罗夫湾号 」(USS Petrof Bay, CVE-80) に対しての攻撃であり魚雷命中はなかった、との可能性が指摘されている。なお、この時米軍護衛舰より発射されたヘッジホッグの不発弾体が飛行機格納筒横の甲板に残留していたものを捕獲し、日本軍は米軍の対潜兵器についての情報を得ることができた。
- 11月4日 呉に帰港。
- 12月上旬起开始进行回天的发射訓練。
- 12月21日 作为回天特別攻撃隊(金剛隊)成员从吴港出港、アドミラルティの米舰隊の攻撃に向かったが、米軍の警戒が厳重なため回天出撃地点に到達できず、命令により呉に
- 1945年2月3日 入港。舰長、機関長、航海長、砲術長、分隊士、掌水雷長、軍医長などが転任交代。
- 3月31日 与伊44、伊47和伊58一同被编入多多良隊前往冲绳,向かったまま消息不明。
- 4月5月 据美军记载在冲绳以西遭美军巡洋舰「ハドソン」攻击而沉没。
- 5月2日 确认在冲绳方面丧失
- 6月10日 除籍。包括12名回天搭乗員在内(一说6名)全体122名官兵战死。
- 22号電探1基、逆探1基を新造時より装備、竣工時期が遅かったため航空機の搭載は無いと思われる。
- 1944年11月に回天搭載工事を実施、後甲板の14cm砲を撤去し回天4基を搭載する。
- 1945年3月の出発前には航空機搭載設備(格納筒、射出機、クレーン)を撤去、前甲板に回天2基を搭載し、合計6基搭載となった。他艦の状況から13号電探も装備と推定される。
- 森永正彦少佐(1944年06月08日-)
- 正田啓治少佐(1945年02月01日-)
- ^ 「丸」杂志编辑部《写真 日本の軍舰 第12巻 潜水舰》(光人社、1990年)p173