While some authors, like Capa biographer Richard Whelan, always defended the photograph's authenticity, since 1975, doubts have been raised. The 2007 documentary La sombra del iceberg claims that the picture was staged and that Borrell is not the individual in the picture.


In his 2009 book, Sombras de la Fotografía ("Shadows of Photography"), José Manuel Susperregui of the University of País Vasco concluded that the photograph had not been taken at Cerro Muriano but at another location about 35 mi(56 km) away. Susperregui determined the actual location of the photograph by examining the backgrounds of other photographs from the same sequence as the "Falling Soldier", in which a range of mountains can be seen. He then e-mailed images to librarians and historians in towns near Córdoba, asking if they recognized the landscape, and received a positive response from a community called Espejo. Since Espejo had been at some distance from the battle lines when Capa was there, Susperregui said that this meant that the "Falling Soldier" photograph was staged, as were all the others in the same series supposedly taken on the front.[1]

Spanish newspapers, including the Barcelona newspaper El Periódico de Catalunya[2] sent reporters to Espejo who returned with photographs showing an almost perfect match between the present day skyline and the background of Capa's photographs.

Willis E. Hartshorn, director of the International Center of Photography, asserted the photograph's veracity, suggesting that the militiaman had been killed by a sniper firing from a distance while posing for a staged photograph. Susperregui dismissed the suggestion, pointing out that the front lines were too widely separated and that there was no documentary evidence about the employment of snipers on the Córdoba front.

Susperregui pointed out other contradictions in the accepted account of the photograph in his book, noting that Capa mentioned in interviews that the militiaman had been killed by a burst of machine-gun fire rather than a sniper's bullet, and also that he gave very different accounts of the vantage point and technique he used to obtain the photograph.[3]

Further materials, old films containing images by Capa, Gerda Taro and David Seymour, came to light in early 2009, when a lost 'suitcase', containing hundreds of Capa's negatives was unearthed, having been taken to Mexico at the end of the war. These films are now with the Capa archives at the International Center of Photography in New York. The 'suitcase' is actually three cardboard boxes of negatives.[4]

Hopes to find the missing negative of Capa's most famous picture were soon dashed, but the traveling exhibition of hundreds of images that toured major art galleries in 2008 showed pictures taken on the same location and at the same time. A detailed analysis of the landscape in the series of pictures taken with that of the falling soldier has proven that the action (whether genuine or staged) took place near Espejo.[5]

Many of the images in this show were clearly staged and posed, including many famous images by both Capa and Taro from the Spanish civil war.[6] The falling man is part of a broken series of images and in the exhibition, the fifth in a sequence of seven shots. Other images from the sequence are missing. Images six and seven are of a second 'falling' soldier, who is not the famous man of shot number five. It is the striking similarity between these similar images 5,6 and 7, two of which were published on the same page of the early VU spread, that always has led some to conclude that the falling men were casualties of war and now allowed others to conclude that all the pictures in this series were staged by Capa. It made for successful propaganda for the Republican cause, but also furthered Capa's early career.

1996年,西班牙历史学家 1996年スペイン歴史家 マリオ・ブロトンス・ホルダが、被写体の割り出しを行い、被写体の肩から下がる弾丸ケースがアルコイ守備隊の司令官が特別にデザインした ものであるのに気づき、セロ・ムリアーノの戦いで死亡したアルコイ守備隊員を調査し、スペイン政府の公式記録からフェデリコ・ボレル・ガルシアと いう名の兵士だと判断した。そして、弟エベリスト・ガルシアが認めた、とされた。これにより真贋論争は一旦終止符が打たれた[7]

だが「La sombra del iceberg」というドキュメンタリーは、この「崩れ落ちる兵士」は“やらせ”で、ボレルは写真の人物ではないとした。[注 1]

2009年7月17日、スペイン紙ペリオディコ (el Periodico[8])が、この写真は実際には、セロ・ムリアーノから約56キロ離れた町であるTemplate:仮リンク(Espejo)付近で撮影されたとする記事を掲載した。そしてエスペホ付近で交戦が行われたのは1936年9月22日~25日の みであったので、この写真は本物の前線からは離れた場所で撮られたものと断定した[9][10]

実際の撮影場所がエスペホだった、ということは、スペインの パイス・バスコ(País Vasco)大学[11] オーディオ・コミュニケーション学部の映像論を専門とするホセ・マニュエル・ススペレギ(José Manuel Susperregui)教授[12]引用错误:没有找到与<ref>对应的</ref>标签[13][14]。ススペレギ教授は、2009年6月に出版したSombras de la Fotografía ("Shadows of Photography")[15] の中でこのことを明らかにした。エスペホというのはスペインの小さな街であるが、そこには高さ30mほどの丘があり、そこが撮影の場所だと特定されたので ある[14]。その場所を同定するのに用いられたのは、43枚の一連の写真であった[14]。43枚の写真はキャパの遺品整理係の者が、キャパの遺品の中から発見し、一挙にではなく少しづつ公開してきたものであり、それらの中にはまさ に「崩れ落ちる兵士」に写っている白いシャツと同一服装・同一容姿の人物、および同じ風景を含んでいるものがある[14]。白いシャツの男が、仲間たちと並んで、笑いながら両手を挙げてポーズをとっている写真も含んでいる[14]。それによって「崩れ落ちる兵士」と43枚の写真は、同一日に同一の場所で撮影されたものだと判った[14]。(白いシャツの男は頭にナイトキャップのような帽子(サンタの帽子に似たような帽子)もかぶっている。)おまけに43枚の写真に写っ ている兵士の中で白いシャツを着ているのはこの男一人だけであって、他の誰も白いシャツを着ていないので、男の同定はたやすい[14]

43枚の写真の中に、周囲の山の稜線がはっきりと写っているものが複数枚 あり、その稜線の形が撮影場所を正確に特定するための決め手となった[14]。「崩れ落ちる兵士」では周囲の山の稜線ではっきりしているものが少なくて場所を特定できなかったのだが、同一の場所で撮影された多数の写真が 発見され、そこに明瞭な稜線が多数得られたことで撮影場所の特定が可能になったのである[14]。写真に写っている山並みのうち、右手の手前に見える山並みはシエラ・デ・モンティージャ(モンティージャ山地)、左の奥に見える山並みはシエ ラ・デ・カブラ(カブラ山地)という。この2つの山並みと撮影場所になったオリーブの丘に挟まれた平野部はジャノ・デ・バタン(バタン沃野)と呼ばれてい る[16]。写真の平野がジャノ・デ・バタンであることを初めて指摘したのは、ア ギラール・デ・ラ・フロンテーラという町にあるビセンテ・ヌーニェス中学のアントニオ・アギレラという中学生であり、それは2009年3月のことであっ た[17]

さらに、ススペレギ教授は、エスペホの戦闘は9月 23日であったこと、フェデリコ・ボレルではないこと、撮影はライカではなくローライフレックスで あること(後述)などを推定した[18]

この写真が発表 されたのは1936年9月23日だったので、もしこの写真が本当に戦争が撮影されたものだとしたら、この9月23日以前に、このエスペホの丘で戦争が起き ていなければ撮影できなかったことになる[14]。だが、戦史研究家パトリシオ・イダルゴの調べによって、9月23日以前のエスペホにおいては戦闘は一切なかったこと、反乱軍がエスペホに攻撃 してきたのは9月23日よりも後の話であったことが判った。9月23日以前にエスペホで起きたことといえば、せいぜい偵察機が一機飛来したことだけだっ た[14]。これによって、実は写真に写っている兵士というのは、戦闘中だったわけでもなく、ただの訓練中にすぎなかったので、敵に撃たれたわけでもな い、と判明した[14]。「崩れ落ちる兵士」に写っていた兵士というのは実は、ただ後ろに転びそうになっている兵士にすぎなかったわけであり、この兵士は命を落として もいなかったのである[14]

沢木耕太郎は、(1)写真が撮影さ れたとされる日の前後ではこのエスペホ周辺地域での戦闘行為が無かったこと、(2)写真に写っている銃の状態が弾薬未装填の状態(銃がすぐには撃てない状 態)であること、から、この「崩れ落ちる兵士」は、実際には戦争状態を撮影したものではなく、当時エスペホにおいて行われていた訓練(演習)の場面を撮影 したものだ、と指摘した[14]

ではなぜフリードマンが真相を正直に語る ことができなかったかと言うと、それは次のように推定できる[14]、とNHKは分析した。あの時代を生きたひとりのユダヤ人であったフリードマンにとって、ナチス政権やヒトラーは敵 だった。ハンガリーにもナチスのファシズムの手が伸びてユダヤ人は迫害されたので、ハンガリーのユダヤ人青年フリードマンはハンガリーを逃れてパ リに出て、カメラの力でなんとかしてナチズムと戦おうとした。インチキを重ねて成立してしまったこの写真だが、その写真がひとたびメディア上で反ファシズ ムのシンボルとして用いられるようになり社会的に大きな影響力を持つものになってしまったことで、ファシズムと戦いたいフリードマンは、この写真成立時の 真相を告白することができなくなり、口をつぐんだと推察される[14]

ところで、43枚の写真はそれぞれ縦横の比率(フォーマット)によってライカで撮影されたものか、ローライフレックスで撮影されたものか判別できる。ローライフレックスの写真は縦横の比率が1:1の正方形になるからである。 沢 木は、原版のネガに最も近いとされる、MOMA収蔵の「崩れ落ちる兵士」のプリントの縦横の長さの比率(フォーマット)を分析したところ、撮影距 離と、プリントの縦横の比率からライカで撮影した仮定すると縦が5%ほど足りず、ライカで撮影されたものではあり得ず、ローライフレックスで撮影したもの を、ライカのサイズに似せてカットしたもの、と指摘した。

したがって、この日キャパはライカを使っていたので「崩れ落ちる兵士」はキャパ が撮影したものではなく、ゲルダ・タローがローライフレックスで撮ったものであると指摘した[19]ref name="nhk_document" />。

43枚の写真を細かく分析するために、 沢木耕太郎は衛星の地形データや古地図を基に、CGの専門家にも依頼してエスペホの地形をコンピュータ上で正確に再現した。すると、それによって得られた エスペホの丘から見えると計算される稜線の線が、「崩れ落ちる兵士」の中に写っている数少ない、特徴的な稜線と完全に一致した[14]。43枚の写真に写っている稜線の分析などから、これらの写真はエスペホの丘の南側斜面で撮影されたものだと判明した[14]

43枚の写真には、銃を持ち丘を走る兵士が写っている、ライカで撮影された一枚が ある(仮に「走る兵士」と呼ぶ)。沢木は、その写真に写る<<走る兵士>>の姿の背後に、わずかではあるが「崩れ落ちる兵士」の 白いシャツを着ている男の体の一部が、「崩れ落ちる兵士」とほぼ同じ体勢で写っていることに気づいた。2枚の写真に同一人物がほぼ同じような倒れかけの姿 勢で写っているのだから、2枚はほぼ同じタイミングで撮影されたことになる[14]

コ ンピュータグラフィックスを用いた分析などにより、被写体(丘を走る兵士)とカメラの間の距離は5mと推定された。それはそれでよいのだが、問題なこと に、「走る兵士」を写したカメラは、その写真に写った周囲の稜線などの分析によって、「崩れ落ちる兵士」を撮影したカメラの右側1.2mの場所にあったこ とが判明した[14]。しかも2枚の写真に写っている被写体(人物)の移動状態から判断するに、「崩れ落ちる兵士」と「走る兵士」の2枚は、ほんの0.86秒のタイ ミングのズレで撮影されたと推定された。ここでもし、これらの2枚の写真が撮影したのが一人のカメラマンだったとすると、無理が生じる。当時のカメラの性 能・操作性から判断すると、1枚の写真を撮影しておいて、続いて0.86秒の間に1.2m移動してもう一枚別の写真を撮影する、などということはとても無 理だと判断されるからである[14]

つまりこれは、2人のカメラマンがこ の丘に並んで撮影していた、ということを意味する。そしてその2人というのは、フリードマン(=ロバート・キャパ)とゲルダ・タロー(=キャパの恋人)だ と推定される。というのはこのころにこの周辺の路上で他の人によって撮影された多数の写真の一枚に、偶然、ゲルダとフリードマンが一緒に歩いている姿が 映っているものがあり、それが現在まで残っているからである。つまり、「崩れ落ちる兵士」の撮影をした時、フリードマンとゲルダは一緒にいたと考えるのが 妥当なのである[14]

キャパはライカを使っていたとされるので、結論と して、「本当は<<走る兵士>>のほうを撮ったのがキャパであり、その0.86秒後に <<崩れ落ちる兵士>>を撮影したのは、実はゲルダ・タローだった」と、沢木耕太郎は推定した[14]

すると結局、フリードマンの出世作であったこの「崩れ落ちる兵士」という写真は、 さらに嘘が重ねられて成立したものだということになり、フリードマンの背負ってしまったものはさらに複雑なものだったことになる。つまり、フリードマン は、本当は戦闘が全くなかった場所で撮影した写真によって「戦場カメラマン」という名声を獲得してしまったのであり[14]、しかもその写真を撮影したのはフリードマンではなかったのである[14][注 2]

LIFE誌に「崩れ落ちる兵士」が掲載されて有名人になる直前に恋人のゲルダが戦 場で死亡してしまったフリードマンは、本物の戦場で撮影をしたこともない自分に、2重の「ひけめ」を感じることになり、その心理的な負債を少しでも返すた めに、その後の人生で彼は、命を顧みずに本物の戦場へと出てゆかざるを得なくなった、と推定される、というのがNHKの番組によるロバート・キャパの人生 の真相の分析である[14]

  1. ^ Susperregui, José Manuel. Sombras de la Fotografía: Los Enigmas Desvelados de Nicolasa Ugartemendia, Muerte de un Miliciano, la Aldea Española, el Lute. Universidad del Pais Vasco. 2008. ISBN 978-84-9860-230-2. 
  2. ^ "Iconic Capa war photo was staged: newspaper"
  3. ^ Rohter, Larry. New Doubts Raised Over Famous War Photo. New York Times. 17 August 2009. 
  4. ^ [New York Times, January 27, 2009http://www.nytimes.com/2008/01/27/arts/design/27kenn.html?_r=2&pagewanted=all]
  5. ^ This is war retrospective,[1], showing how Taro and Capa worked in Spain during the civil war, both together and alone, using a variety of cameras and techniques.
  6. ^ [Ethical Martini][2] [blog] 1 November 2008
  7. ^ 沢木耕 太郎『キャパの十字架』第3章27-31節、文藝春秋、2013年。しかし、その後公式記録には存在しないことがわかった。第3章43 節
  8. ^ [3] 電子板
  9. ^ 『キャパの十字架』第3章44節。 "New Doubts Raised Over Famous War Photo" By LARRY ROHTER, The New York Times, August 17,2009
  10. ^ ロバート・キャパ「崩れ落ちる兵士」にやらせ疑惑、スペイン紙. AFPBB News. 2009-7-18 [2013-2-17]. 
  11. ^ /University_of_the_Basque_Country[4] Universidad del País Vasco ("University of the Basque Country")
  12. ^ /seekuser.php?lang=en&u=Y3lwc3VlY2o=
  13. ^ 沢木耕太郎 思 索紀行 キャパへの道 NHK BSプレミアム 2013年3月25日 午後11:00-11:50放映 22分38秒~22分42秒(ただし、勤務先は「サンセバスチャン大学」となっている。)
  14. ^ 14.00 14.01 14.02 14.03 14.04 14.05 14.06 14.07 14.08 14.09 14.10 14.11 14.12 14.13 14.14 14.15 14.16 14.17 14.18 14.19 14.20 14.21 14.22 14.23 14.24 14.25 引用错误:没有为名为nhk_document的参考文献提供内容
  15. ^ Sombras de la Fotografía  ("Shadows of Photography"), by José Manuel Susperregui País Vasco大学出版 ISBN 978-8498602302
  16. ^ 『キャパの十字架』第4章49節
  17. ^ 『キャパの十字架』第4章48節
  18. ^ 『キャパの十字架』第4章50-51節
  19. ^ 『キャパの十字架』第8章 160節


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