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活着的兵隊》(日語:生きてゐる兵隊(いきているへいたい)是1945年12月發表的日本記者石川達三的一部報告文學,以大屠殺期間在南京對侵華日軍官兵面對面採訪的記錄為素材撰寫而成。

概要 編輯

侵華日軍攻占南京後,石川達三作為日本中央公論社的特派記者前往採訪,抵達上海後乘火車於1938年1月5日進入南京。在南京,石川達三對參與南京大屠殺的侵華日軍第16師團第33聯隊進行了8天的實地採訪,以後又在上海對其他侵華日軍部隊進行了4天補充採訪,依據採訪內容於當年2月上旬撰寫了這部報告文學。由於紀實性地描述了侵華日軍的活動,在日本國內被認為是危害皇軍威信的作品,沒有被接受。《中央公論》1938年3月號刊載時雖然自主刪除了描述日軍對非武裝平民和婦女的殺戮、以及侵華日軍官兵在野蠻血腥的侵略戰爭中的心態等占原稿四分之一篇幅的敏感內容,日本內務部還是以「詆毀皇軍、擾亂時局」為由在發行當天查禁了《中央公論》當期刊物。隨後,作者、編輯和發行等三方被以涉嫌違犯新聞報刊法第41條(擾亂社會秩序)被公訴。石川達三受到監禁4個月緩刑3年的有罪判決。

1945年12月,河出書房(自由新書系列)出版了完整版的單行本。1999年7月,中央公論新社出版了修正版。石川達三在為1938年刪節版寫的前言中表示,「該文不是如實記錄實際作戰的經過,是作者嘗試了相當程度的自由創作的作品。部隊番號和官兵的姓名都是虛構的」。但是,在1945年初版自序中石川達三表示作品「呈現了戰爭的原滋原味」。書中有很多和成為原型的第16師團第33聯隊的作戰進程及歷史事實相一致的內容。

1945年5月9日,在接受日本讀賣新聞採訪時,石川達三說:「我是正月抵達南京的,沒趕上入城儀式,堆積在街頭的屍體觸目驚心」,並且詳細描述了在大屠殺現場的所見所聞。採訪報道發表之後,遠東國際軍事法庭的先行機構國際檢查部(International Prosecution Section )詢問了石川達三。石川達三補充說「這本書裡,我把發生在南京的事情作為發生在其他戰場的事情來記述」[1]

石川達三於1985年1月31日去世。曾任「百人斬」訴訟後援會會長、現任「要求中國抗日紀念館撤除錯誤圖片的國民會」會長的日本歷史右翼文人阿羅健一,在2002年出版的《「南京事件」日本人48人的証言》(小學館文庫)一書中聲稱,他曾經在石川達三去世前三個月要求採訪,雖然被石川達三以治療為由拒絕了,但是石川達三曾經回應說:「我是在入城儀式兩周後抵達南京的。大屠殺的跡象一丁半點兒都沒看到。難以想象兩三周內能夠處理完數萬具屍體。關於我對大屠殺的所謂證言是虛構的,我至今也不相信」。

概要 編輯

書中人物 編輯

  • 近藤
一等兵。醫學學士。為治病救人的醫學世界和生命輕易消失的戰場的現實之間的差異而為難。在支塘鎮「徵用鮮肉」行動中姦殺中國女性。
  • 笠原
下士。農家的次子,粗野而無知。擅長殺人而對戰友情誼深厚,被稱為「和部隊最般配的士兵」。
  • 平尾
一等兵。曾經在新聞社作校對工作。入伍以後,仿佛把本來具有的細膩感性收藏起來了一樣,大言壯語や勇ましげな振る舞いを見せるようになった。
  • 片山玄澄
隨軍僧侶。本來的職責應該是超度亡魂的僧侶,參戰以來已經習慣於一手持念珠,一手持用慣了的鐵鍬劈頭殺人。在常熟一天殺死了5、6人。
  • 中橋
翻譯。血氣方剛的青年,志願成為了翻譯。毆打試圖阻止搶奪耕牛的老婦。
  • 倉田
小隊長、少尉。入伍前是小學教師,性格認真。自己早就記不清楚殺了多少中國人。殺人後,語調平緩地說:「好久沒有如此心情愉快地工作過了」。
  • 西澤
聯隊長、上校。從支塘鎮、古里村、常熟、無錫、常州、丹陽、湯水鎮至到南京,每占領一處,手下都向「獵狗追逐兔子一樣搜尋女人」,所有糧秣都從占領區徵收。

腳註 編輯

  1. ^ 笠原十九司『南京事件論爭史』平凡社新書

関連項目 編輯


石川 達三
(いしかわ たつぞう)
 
1954年
出生1905年7月2日
  日本秋田県平鹿郡橫手町
(現・橫手市
逝世1905年7月2日(1905歲—07—02)(−79歲)
  日本東京都目黒區中目黒 東京共済病院
墓地神奈川県平塚市那由侘の里
職業小説家
語言日本語
國籍  日本
母校早稲田大學英文科中退
創作時期1931年 - 1985年
體裁小説
代表作蒼氓』(1935年)
生きてゐる兵隊』(1945年)
『人間の壁』(1959年)
青春の蹉跌』(1968年)
獎項芥川龍之介賞(1935年)
菊池寛賞(1969年)

石川 達三(いしかわ たつぞう、1905年明治38年)7月2日 - 1985年昭和60年)1月31日)は、日本小説家。『蒼氓』により、芥川賞受賞者第一號となった。

人物 編輯

生於日本秋田縣平鹿郡橫手町(現・橫手市)。父親在秋田縣縣立橫手中學擔任英語教員。少年時代跟隨転勤や転職に伴って秋田市東京府荏原郡大井町岡山県上房郡高梁町(現高梁市)、岡山市などで育つ。1914年、9歳で母を亡くす。1915年、父が再婚する。岡山県立高梁中學校3年から、転居に伴い関西中學校4年に編入し卒業、上京し第二早稲田高等學院在學中に山陽新聞に寄稿。1927年早稲田大學文學部英文科に進み、大阪朝日新聞の懸賞小説に當選。大學を1年で中退した後、國民時論社に就職し、持ち込みを行うも上手くいかず退職。

退職金を基に、1930年に移民の監督者として船でブラジルに渡り、數ヶ月後に帰國。國民時論社に復職して『新早稲田文學』の同人となり、小説を書く。その後國民時論社を再度退職し、囑託として働く。

ブラジルの農場での體験を元にした『蒼氓』で、1935年に第1回芥川龍之介賞を受賞。1936年に結婚。社會批判をテーマにした小説を書くが、1938年生きてゐる兵隊』が新聞紙法に問われ発禁処分、禁固4ヶ月執行猶予3年の判決を受ける。1942年には、海軍報道班員として東南アジアを取材。

戦後の1946年4月10日第22回衆議院議員総選挙に東京2區で、日本民黨(にほんたみのとう)公認候補として立候補するが、立候補者133名のうち、定數12名の22位にあたる24,101票で落選[注 1]。その後も社會派作家として活動し、『人間の壁』、『金環蝕』などを著した。

1969年、第17回菊池寛賞受賞。

要職として、日本ペンクラブ第7代會長(1975年 - 1977年)。日本芸術院會員。また、日本文芸家協會理事長、日本文芸著作権保護同盟會長、A・A作家會議東京大會會長を歴任した。

晩年は胃潰瘍から肺炎を併発し、1985年1月31日、東京共済病院で死去した。墓は九品仏浄真寺にある。

長男に、NHK放送文化研究所を経て上智大學文學部教授となった石川旺がいる。

松本清張と山崎豊子が対談の中で、石川の小説構成の巧みさを論じている。

逸話 編輯

  • 婦人參政権不要論を唱えた事もあり、長谷川町子の『いじわるばあさん』でネタとして取り上げられた。主人公・いじわるばあさんが執筆活動を妨害するが、達三ではなく、間違えて松本清張の執筆を妨害するというオチであった。
  • 日本ペンクラブ會長時代に、「言論の自由には二つある。思想表現の自由と、猥褻表現の自由だ。思想表現の自由は譲れないが、猥褻表現の自由は譲ってもいい」とする「二つの自由」発言(1977年)で物議を醸し、五木寛之野坂昭如など當時の若手作家たちから突き上げられ、最終的には辭任に追い込まれた。
  • 趣味はゴルフ丹羽文雄とともにシングル・プレイヤーとして「文壇ではずば抜けた腕前」と言われた。

著書 編輯

  • 『最近南米往來記』昭文閣書房 1931 のち中公文庫 1981
  • 『蒼氓』改造社 1935 のち新潮文庫
  • 『深海魚』改造社 1936 のち角川文庫
  • 『飼ひ難き鷹』新英社 1937
  • 『日蔭の村』新潮社 1937 のち文庫
  • 『炎の薔薇 新小説選集』春陽堂 1938
  • 『あんどれの母』版畫荘文庫 1938
  • 『流離』竹村書房 1938
  • 『結婚の生態』新潮社、1938 のち文庫
  • 『若き日の倫理』実業之日本社 1939 のち新潮文庫
  • 『智慧の青草』新潮社 1939 のち角川文庫
  • 『薫風 自選作品集』婦人文化社出版部 1940
  • 『盲目の思想』砂子屋書房(黒白叢書) 1940
  • 『転落の詩集』新潮社 1940 のち文庫
  • 『花のない季節』中央公論社 1940 のち文庫
  • 『人生畫帖』新潮社、1940 のち角川文庫
  • 『武漢作戦』中央公論社 1940 のち文庫
  • 『大地と共に生きん』青梧堂 1940
  • 『愛の嵐』実業之日本社 1940
  • 使徒行伝』新潮社 1941
  • 『赤蟲島日誌』八雲書店 1943
  • 生きてゐる兵隊河出書房 1945 のち角川文庫、新潮文庫、中公文庫
  • 『心猿』八雲書店 1946 のち角川文庫
  • 『望みなきに非ず』読売新聞社 1947 のち新潮文庫
  • 『ろまんの殘黨』八雲書店 1947 のち中公文庫
  • 『母系家族』春陽堂 1948 のち角川文庫
  • 石川達三選集』全14巻 八雲書店 1948‐49
  • 『風雪』新潮社 1948
  • 『幸福の限界』蜂書房 1948 のち新潮文庫
  • 『群盲』洗心書林 1949
  • 『心の虹』実業之日本社 1949
  • 『書斎の憂欝』六興出版社 1949
  • 『泥にまみれて』新潮社 1949 のち文庫
  • 『暗い歎きの谷』文藝春秋新社 1949 のち角川文庫
  • 『風にそよぐ葦』新潮社 1950‐51 のち文庫
  • 『古き泉のほとり』新潮社 1950 のち角川文庫
  • 『神坂四郎の犯罪』新潮社 1950 のち文庫
  • 『薔薇と荊の細道』新潮社 1952 のち文庫
  • 『最後の共和國』中央公論社 1953 のち新潮文庫
  • 『青色革命』新潮社 1953 のち文庫
  • 『地上の富』新潮社 1953
  • 『誰の為の女』大日本雄弁會講談社 1954 のち文庫
  • 『思ひ出の人』北辰堂 1954
  • 『悪の愉しさ』大日本雄弁會講談社 1954 のち角川文庫
  • 『不安の倫理』大日本雄弁會講談社(ミリオン・ブックス)1955
  • 『自分の穴の中で』新潮社 1955 のち文庫
  • 『巷塵』角川小説新書 1955 のち文庫
  • 『親知らず』中央公論社 1955
  • 四十八歳の抵抗』新潮社 1956 のち文庫
  • 『悪女の手記』新潮社 1956 のち文庫
  • 『自由詩人』河出新書 1956
  • 石川達三作品集』全12巻 新潮社 1957‐58
  • 『夜の鶴』大日本雄弁會講談社 1957 のち文庫
  • 人間の壁』新潮社 1958‐59 のち新潮文庫、岩波現代文庫
  • 『骨肉の倫理』文藝春秋新社 1959 のち角川文庫
  • 『野育ちの鳩』東方社 1960
  • 『私の少數意見』新潮社 1960
  • 『頭の中の歪み』中央公論社 1960 のち角川文庫
  • 『現代知性全集26 石川達三集』日本書房 1960
  • 『充たされた生活』新潮社 1961 のち文庫
  • 僕たちの失敗』新潮社 1962 のち文庫
  • 『愛の終りの時』新潮社 1962 のち文庫
  • 傷だらけの山河』新潮社 1964 のち文庫
  • 『誘惑』新潮社 1964 のち文庫
  • 『稚くて愛を知らず』中央公論社 1964 のち角川文庫
  • 『私ひとりの私』文藝春秋新社 1965 のち講談社文庫
  • 『花の浮草』新潮社 1965 のち文春文庫
  • 『灑落た関係』文藝春秋新社 1965 のち新潮文庫
  • 『私の人生案內』新潮社 1966
  • 金環蝕』新潮社 1966 のち文庫、岩波現代文庫
  • 『約束された世界』新潮社 1967 のち文庫
  • 青春の蹉跌』新潮社 1968 のち文庫
  • 『心に殘る人々』文藝春秋 1968 のち文庫
  • 『愉しかりし年月』新潮社 1969 のち文春文庫、新潮文庫
  • 『あの男に関して』新潮社 1969
  • 『経験的小説論』文藝春秋 1970
  • 『作中人物』文化出版局 1970
  • 『開き過ぎた扉』新潮社 1970 のち文庫
  • 『人生の文學』大和書房(わが人生観)1970
  • 『解放された世界』新潮社 1971 のち文庫
  • 『私の周囲・生活の內外』大和書房 1971
  • 『現代の考え方と生き方』大和書房 1971
  • 『流れゆく日々』全7巻 新潮社 1971-77
  • 石川達三作品集』全25巻 新潮社 1972‐74
  • 『人物點描』新潮社 1972
  • 『自由と倫理』文藝春秋(人と思想) 1972
  • 『その最後の世界』新潮社 1974 のち文庫
  • 『人間と愛と自由』1975 (新潮文庫)
  • 『生きるための自由』新潮社 1976 のち文庫
  • 『青春の奇術』1976 (新潮文庫)
  • 『時代の流れとともに』1977 (新潮文庫)
  • 『不信と不安の季節に』1977 (文春文庫)
  • 『獨りきりの世界』新潮社 1977 のち文庫
  • 『包囲された日本』集英社 1979
  • 『小の蟲・大の蟲』新潮社 1979
  • 『もっともっと自由を…』新潮社 1979 のち文庫
  • 『七人の敵が居た』新潮社 1980 のち文庫 - 春木猛事件を追ったもの
  • 『星空』新潮社 1981
  • 『裏返しの肖像』新潮社 1981
  • 『その愛は損か得か』新潮社 1982 のち文庫
  • 『恥かしい話・その他』新潮社 1982
  • 『若者たちの悲歌』新潮社 1983 のち文庫
  • 『いのちの重み』集英社 1983

注釈 編輯

  1. ^ 同區トップ當選の加藤シヅエは、138,496票。石橋湛山も同區から立候補し、20位の28,044票で落選している

外部リンク 編輯

関連項目 編輯

①日本語維基南京大屠殺(南京事件 なんきんじけん)條目編輯爭議的提示 編輯

また、日中戦爭開始頃からの中國軍から受けた戦闘などの被害(通州事件のような民間人の殺害など)への復仇のために、日本兵が中國軍人などを人道的に扱わなかったとする記録もある[1]

また、捕虜となることを恥とする習慣から相手國の捕虜への軽侮につながったことなどが指摘されている[2]。また、日中戦爭開始頃からの中國軍や他の中國人武裝組織から受けた戦闘などの被害(通州事件のような中國人部隊(実際は日本の同盟軍であった冀東防共自治政府保安隊)による日本民間人の殺害など)への復仇のために、日本兵が中國軍人や中國民間人を人道的に扱わなかったとする記録もある[3]

また、捕虜となることを恥とする習慣から相手國の捕虜への軽侮につながったことなどが指摘されている[4]。また、日中戦爭開始頃からの中國軍から受けた戦闘などの被害(通州事件のような中國軍人(実際は日本の同盟軍であった冀東防共自治政府保安隊(中國人部隊))による日本民間人の殺害など)への復仇のために、日本兵が中國軍人などを人道的に扱わなかったとする記録もある[5]

この事件については、事件の規模、虐殺の存否、戦時國際法違反か、犠牲者數などさまざまな論爭が存在している(南京事件論爭)。故に事件の真相はいまだ不明である[6][7][8]。 この事件については、事件の規模、虐殺の存否、戦時國際法違反か、犠牲者數などさまざまな論爭が存在している(南京事件論爭)。故に事件の真相はいまだ不明である[1][2][3]。 1長谷川啓之「南京」「現代アジア事典」文眞堂, 2009

2David・M・Kennedy,The Horror,The Atlantic Monthly 281 (4): pages 110–116,April 1998.塩谷紘訳 デビッド・M・ケネディ「南京虐殺はホロコーストではない」『諸君!』平成10(1998)年8月號

3Kennedy(1998)は「南京虐殺事件の背景について萬人が納得するような説明はいまだなされていない」とする。

ロイター通信社による新聞記事によって、事件初期の殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為(Nanjing Atrocities)が日本軍によって行われたとして伝えられて報道された[9]。1938年以降も新聞記事や雑誌(アメリカ雑誌「ライフ」誌の特集(1月、5月)で報道される[10]

行為者の日本に限って南京大虐殺の存否をめぐって論爭が後を絶たないが(南京事件論爭參照)、諸外國では南京大虐殺事件を史実として共有している。例えば、中國系アメリカ人作家アイリス・チャンの著作ザ・レイプ・オブ・南京についてのエッセーでは、ピューリッツァー賞受賞者の米國人歴史學者デビッド・M・ケネディは、ナチスドイツが行ったホロコースト事件の原因に関する分析に見られるような國策、文化及び國民性との関連性までの指摘が、アイリス・チャンの研究には足りないのではないかと主張した一方、西洋諸國では南京大虐殺事件自體の存在を事実として當時から一貫して共有してきたと明示している[11]

南京事件編集記録: 編輯

0808

2017年8月8日 (火) 08:26時點における版 (編集) JapaneseA (會話 | 投稿記録) (利用者‐會話:廢科舉)

2017年8月8日 (火) 08:40時點における版 (編集) 廢科舉 (會話 | 投稿記録) (Japanese sincerity による ID:64974977 の版を取り消し➡通州事件は日本軍影響のもとに置かれた親日武裝の叛亂、中國軍の組織的な武力行使ではない)

2017年8月8日 (火) 09:16時點における版 (編集) 変な人ではない (會話 | 投稿記録) (あからさまな獨自研究 廢科舉 (會話) による ID:65053073 の版を取り消し)

2017年8月8日 (火) 10:17時點における版 (編集) 廢科舉 (會話 | 投稿記録) (変な人ではないによる ID:65053389 の版を取り消し➡認めない。史実を作ったではない、伝えることだ)

なお、The China Weekly Reviewは、南京陥落以前の1937年11月19日の蘇州占領において數千の女性を性的奴隷(sexual slavery)にし、歴史的建造物を焼き払い、中國人の虐殺を數日間続けたため、蘇州の人口は35萬人から500人以下になったと報道している[12]

2017年8月8日 (火) 10:42時點における版 (編集) (取り消し) (感謝) 変な人ではない (會話 | 投稿記録) (あなたが認めないかどうかではなく根拠がない 廢科舉 (會話) による ID:65053989 の版を取り消し) また、捕虜となることを恥とする習慣から相手國の捕虜への軽侮につながったことなどが指摘されている[13]。また、日中戦爭開始頃からの中國軍から受けた戦闘などの被害(通州事件のような民間人の殺害など)への復仇のために、日本兵が中國軍人などを人道的に扱わなかったとする記録もある[14]

2017年8月8日 (火) 10:47時點における版 (編集) (取り消し) (感謝) 大和屋敷 (會話 | 投稿記録) (獨自研究。巻き戻し。)

0812

2017年8月12日 (土) 15:11時點における版 (編集) (取り消し) (感謝) Japanese sincerity (會話 | 投稿記録) (→‎南京事件の発生原因) 新しい編集 →

また、捕虜となることを恥とする習慣から相手國の捕虜への軽侮につながったことなどが指摘されている[15]。また、日中戦爭開始頃からの中國軍から受けた戦闘などの被害(通州事件のような中國軍人(実際は日本の同盟軍であった冀東防共自治政府保安隊(中國人部隊))による日本民間人の殺害など)への復仇のために、日本兵が中國軍人などを人道的に扱わなかったとする記録もある[16]

0816

2017年8月16日 (水) 03:44時點における版 (編集) Alex Shih (會話 | 投稿記録) (取り消し:WP:NPOV)

2017年8月16日 (水) 06:10時點における版 (編集) (取り消し) 廢科舉 (會話 | 投稿記録) (→‎南京事件の発生原因: 編集內容の中立性の補完) (タグ: 2017年版ソースエディター) 新しい編集 →

また、捕虜となることを恥とする習慣から相手國の捕虜への軽侮につながったことなどが指摘されている[17]。また、日中戦爭開始頃からの中國軍や他の中國人武裝組織から受けた戦闘などの被害(通州事件のような中國人部隊(実際は日本の同盟軍であった冀東防共自治政府保安隊)による日本民間人の殺害など)への復仇のために、日本兵が中國軍人や中國民間人を人道的に扱わなかったとする記録もある[18]

2017年8月16日 (水) 08:55時點における版 (編集) 廢科舉 (會話 | 投稿記録) (當該箇所を編集するまえに、デビッド・M・ケネディ氏の原文及びノートページの提示を読むことを求めます。)

2017年8月16日 (水) 09:42時點における版 (編集) (取り消し) (感謝) 大和屋敷 (會話 | 投稿記録) (NOR)

2017年8月16日 (水) 11:13時點における版 (編集) (取り消し) 廢科舉 (會話 | 投稿記録) (大和屋敷 (會話) による ID:65144194 の版を取り消し)

2017年8月16日 (水) 13:02時點における版 (編集) Japanese sincerity (會話 | 投稿記録) (表現ぶりを変えました。南京事件は史実として存在するのが定説ですが、規模については明確でないのが研究者の意見でもあるので、この表現で了解してほしい。)

近年、日本では南京事件の規模やときに存否をめぐって論爭が続いている(南京事件論爭參照)が、諸外國の研究者などの中には、南京事件をナチスドイツが行ったホロコースト事件のように扱う例も見られる[19]

2017年8月16日 (水) 17:55時點における版 (編集) 廢科舉 (會話 | 投稿記録) (Japanese sincerity (會話) による ID:65146485 の版を取り消し 中立性を著しく損なった)

2017年8月16日 (水) 23:56時點における版 (編集) Japanese sincerity (會話 | 投稿記録) (これでどうでしょうか?これ以上すすめると、もっと過激な方と論爭になるだけですよ。。)

加害者とされる日本では、南京事件の存否をめぐって論爭が殘っている(南京事件論爭參照)が、諸外國では南京事件を史実として共有しており、西洋諸國では南京事件自體の存在を事実として當時から共有・明示されてきた[20]

0817

2017年8月17日 (木) 00:37時點における版 (編集) (取り消し) (感謝) 大和屋敷 (會話 | 投稿記録) (NOR)

2017年8月17日 (木) 01:58時點における版 (編集) 廢科舉 (會話 | 投稿記録) (大和屋敷 (會話) による ID:65150652 の版を取り消し編集規則を守るように)

2017年8月17日 (木) 03:01時點における最新版 (編集) (取り消し) 廢科舉 (會話 | 投稿記録) (西洋諸國では南京事件という表現は使われず、南京大虐殺は通説である)

加害者とされる日本では、南京大虐殺の存否をめぐって論爭が殘っている(南京事件論爭參照)が、諸外國では南京大虐殺を史実として共有しており、西洋諸國では南京大虐殺自體の存在を事実として當時から共有・明示されてきた[21]

2015年10月9日、ユネスコは中國の申請に対して「南京大虐殺文書」(Documents of Nanjing Massacre)を記憶遺産に登録した[22]引用錯誤:沒有找到與<ref>對應的</ref>標籤

被告松井は、訴因1・27・29・31・32・35・36・54・55で訴追されたが、、共謀罪を構成する共同謀議の証拠は発見できなかった[23]。1937年と1938年の中國での松井の軍務を、侵略戦爭とは見倣せない[23]。訴因27について検察は証拠を提示できなかった[23]。一方、戦爭犯罪への訴追を恐れ、終戦直後に日本政府は組織的に大規模な証拠隠滅活動を行った[24]

2017年8月17日 (木) 15:41時點における版 (編集) Japanese sincerity (會話 | 投稿記録) (どちらもこのあたりで妥協してください)

加害者側の日本では、現在でも、その存否をめぐった論爭が殘っている(南京事件論爭參照)が、諸外國では「南京大虐殺」が広く史実として共有されており、西洋諸國では日本軍が行った「南京大虐殺」自體の存在を事実として當時から共有・明示されてきた[25]

2017年8月17日 (木) 18:47時點における版 (編集) (取り消し) 大和屋敷 (會話 | 投稿記録) (nor)

0818

2017年8月18日 (金) 00:36時點における版 (編集) 廢科舉 (會話 | 投稿記録) (大和屋敷 (會話) による ID:65160029 の版を取り消し 聲明:全保護は管理者の管理責任を迴避するための逃げ道にされるべきではない。)

2017年8月18日 (金) 06:28時點における版 (編集) 廢科舉 (會話 | 投稿記録) (大和屋敷 (會話) による ID:65163042 の版を取り消し)

2017年8月18日 (金) 06:59時點における版 (編集) (取り消し) 大和屋敷 (會話 | 投稿記録) (NOR)

2017年8月18日 (金) 08:27時點における版 (編集) (取り消し) 廢科舉 (會話 | 投稿記録) (くだらない小細工やめてください。)

2017年8月18日 (金) 09:24時點における版 (編集) アルトクール (會話 | 投稿記録) m (廢科舉 (會話) による版を 変な人ではない による版へ巻き戻し)

2017年8月18日 (金) 16:04時點における版 (編集) (取り消し) Japanese sincerity (會話 | 投稿記録)

0819

2017年8月19日 (土) 03:24時點における版 (編集) (取り消し) 大和屋敷 (會話 | 投稿記録) (獨自研究です。このような文字列を採録するわけにはいきません。主張と事実を區別してください。)

2017年8月19日 (土) 03:26時點における最新版 (編集) (取り消し) 大和屋敷 (會話 | 投稿記録) (NOR(「同盟軍」という事実にない文字列の使用))

なお、The China Weekly Reviewは、南京陥落以前の1937年11月19日の蘇州占領において數千の女性を性的奴隷(sexual slavery)にし、歴史的建造物を焼き払い、中國人の虐殺を數日間続けたため、蘇州の人口は35萬人から500人以下になったと報道している[12]

「南京虐殺」はホロコーストではない 編輯

米歴史學者の『ザ・レイプ・オブ・南京』批判 アイリス・チャンが依拠するバーガミニは定評ある歴史家によって退けられているのだ (『アトランティック・マンスリー』98年4月號より転載 塩谷紘訳) 『南京虐殺はホロコーストではない』(「諸君!」98年8月 http://www.history.gr.jp/nanking/books_shokun9808.html デビッド・M・ケネディ

スタンフォード大學歴史學部長

『諸君!』平成10(1998)年8月號より転載

 「殘虐行為は、傷付いた獣を追うジャッカルさながらに、常に戦爭につきまとうものである」

 マサチューセッツ工科大學(MIT)の歴史學者、ジョン・W・ダワー教授は、太平洋における第2次世界大戦史を論じた自著、『War without Mercy』(1986年、邦訳『人種偏見』TBSブリタニカ)でこう述べている。  非人間的行為は、第2次世界大戦を戦ったあらゆる軍隊の背後に、死骸に飢えた悪霊のように忍び足でついて回った。  狀況は連合國側も樞軸國側も同じだった。  獨ソ戦にみられた殘虐行為は全世界の知るところであり、ヒトラーによるユダヤ人の組織的な抹殺作戦はなかでも最も極悪非道の行為だった。  ホロコーストは、人類が悪魔的所業を犯す能力の象徴として、われわれが生きるこの時代の恐怖に満ちたシンボルとして定着している。  ホロコーストの記憶は今なお世界の人々の想像力の中で生きのび、人類の未來を予言する哲學者たちの確信を揺るがせ、教會を司る人々の言行の正當性を問い、芸術や文學に暗い影を落とし、この問題について熟慮するあらゆる人々の心膽を寒からしめている。  そして、半世紀以上を経た今日、ホロコーストの記憶はまた、諸政府の政策に影響を及ぼし、國家間の関係を決定付けたりさえしているのである。  事実、ホロコーストをめぐる現代の論議は、殘虐の政治學を理解したいと願う人類の近代的衝動の発露であると同時に、人間を殘虐行為に導く本能を分析し、そして可能なことならその本能そのものを制御することを目論んだ一時代前の文化的プロジェクトに、規模と熱烈さの點で匹敵する作業なのである。  現代においては、苦難の政治學をコントロールしようとする努力は、悪の心理學を理解しようとする努力に取って代わりさえしつつあるのかもしれないのだ。  アイリス・チャン著『ザ・レイプ・オブ・南京』のサブ・タイトルは『The forgotten Holocaust of World War II(第2次世界大戦の忘れられたホロコースト)』とある。  これは、世界がアジアにおける戦爭をヨーロッパにおける戦爭と同一視し、日本軍のサディズムの犠牲者となった中國人にホロコーストの犠牲者と同等の資格を與えよと主張する著者の意図を示すものである。  確かに、日本軍による1937年12月の南京陥落後に同市で起きた慘事に記録は、冒頭に引用したダワー教授の言葉の正しさを証明するものだ。  しかし、南京における出來事が果たしてホロコーストと比較するに相応しいかどうかは、別の問題だろう。  また、日本人によって完全に忘れられてしまったかどうかは、疑わしい。  日本の中國侵略は、1931年の満州占領から始まった。  この事件は、上海在住の日本人に対する中國側の報復を招いた。  これに対し、日本側は上海出兵で応じたのだった。  日中両軍の激烈かつ戦闘地域が限定された戦いが、1932年の大半を通して繰り広げられた。  戦火はその後下火になり、數年間の小康狀態が続いた。  その間、日本は満州支配體制の強化を進め、一方中國は、次第に激化しつつあった蔣介石の國府軍と毛沢東の共産軍との內戦に大きく揺れ動いていた。  西側社會は、大恐慌と増大しつつあるヒトラーの脅威に気を奪われ、アジアで湧き上る危機に対してほとんど打つ手はなく、ただ傍観するのみだった。  1937年7月、北京郊外の盧溝橋付近で起こった中國軍と日本軍との小規模な衝突が、日中間の本格的戦爭に拡大した。  日本側は中國と公然と戦うことは、救いようのないほど無力と見なしていた中國政権を懲らしめる絶好の機會と考えていたようだ。  イギリスのある外交官が見た當時の日本の中國観は、次の様なものだった。

上海、そして南京へ

 「中國は文明國ではなく、定形を欠く民族集団に過ぎない。  その政府は秩序の維持が不可能なほど無力である。  共産主義の嵐が荒れ狂い、國家は競い合う軍閥の率いる軍隊や共産軍、そして盜賊の群れによる略奪の餌食となっている」  一方、國府軍の將軍たちや中國共産主義者たちの圧力下にあった蔣介石は、日本の侵略者たちと対決して決着をつける機會を待ち兼ねていた。  しかし蔣総統は、北京周辺で日本軍の主力と戦うよりも1932年のシナリオを再現させることによって戦闘の舞台を中國南部に移すことをもくろんだのである。  蔣は、上海の約3萬人の在留邦人に脅威を與えることによって、北支の日本軍を、蔣介石の主たる政治基盤であり最も安全と考えられていた揚子江下流の地域におびき出せると読んだのである。  この囮(おとり)作戦は成功した。  日本軍部は目を南に向け、8月23日、當時の日本軍司令官、松井石根大將は上海攻撃を開始した。  松井大將は中國側の激烈ながら散発的な抵抗(當時蔣の將軍たちは、臆病だという理由で數百名の國府軍兵士を処刑している)に遭いつつ、ジグザグのコースをとりながら上海に向かって前進した。  兵士の3割死傷者を出した後の11月上旬、ついに上海を占領した。  蔣にとってこれは深刻な軍事的敗北であったと同時に、その後直ぐに起こることになった、それ以上に規模の大きい慘劇の序曲だったのである。  日本軍は猛烈な絨毯爆撃の後、揚子江流域に向かい、國府軍の首都南京へと進撃を続けたのだった。

南京を捨てた國府軍

 血の揚子江・・・・・・。  それより1世紀弱前のことになるが、14年の長きに及んで続き、合計2千萬人の犠牲者を出した太平天國の亂(1850-64年)でも壯烈な戦闘のいくつかが、揚子江のこの豊かな流域で繰り広げられた。  日本の侵略が始まる前の10年間に、蔣の軍隊は揚子江下流地域で共産主義者や労働組合員たちを情け容赦なく皆殺しにした。  彼らは同時に、イギリス、アメリカ、日本などの領事館を襲撃して略奪を行い、數名の外國人を殺害している。  松井大將麾下の兵士たちは、煮えたぎるような憎悪と頻発する暴力に満ちた「歴史のボイラー」の中で前進を続けたのだった。  主戦場である南京城の城門に近づくにつれて、大混亂の中で敗走を始めた蔣の兵士たちはパニック狀態に陥り、散り散りになって行った。  日本軍が接近すると國民政府の役人たちは南京を捨てて逃亡した。  蔣介石自身も、12月8日、自ら制定した首都から退散している。  後に殘されたのは、可能な限りの後衛を託された唐生智將軍指揮下の、體裁ばかりの部隊だった。  唐將軍は抵抗する気配すら見せなかった。  12月12日の夕刻、日本軍の進軍のペースを落とす策として南京市の城壁の外にある家屋に放火することを命令した後、唐は大型ボートに乗って逃亡し、揚子江上流に向かった。  南京防衛隊の殘兵と、揚子江下流地域から南京市に退卻してきた兵士たちは、指揮官たちに見捨てられ、市を包囲する火の海に行く手を封じられることを恐れて、可能な限りの安全を求めて暴走した。  何千もの兵士たちは揚子江の凍て付くような流れの中に身を投じたが、遠い対岸に安全を求めたこの行動が自殺行為だったことは、たちまち証明されたのだった。  さらに多くの兵士たちは変裝して、包囲された市內に潛入することを目論んだ。  彼等は接近しつつある侵略者の追及をかわすために狂気の爭奪を繰り広げた。  軍服をかなぐり捨て、民間人用の衣服を求めて商店の略奪や市民の襲撃を行い、戦友を踏みにじり、手斧で襲い、機関銃で撃ったのである。  12月13日、信じ難いほどの混亂現場に、日本軍の先発部隊が侵入してきたのだった。  當時の南京の中國人居住民たちは、10年にも及ぶ民生の混亂、國府軍による略奪、反政府的暴動、そして本來なら自分達を守ってくれるべき中國人兵士たちによる際限なき暴威に痛め付けられていた。  だから市民の多くは、流血と火炎の地獄と化した混亂の都市南京に少なくとも一応の秩序をもたらしてくれるかもしれない規律ある軍隊として、日本軍を歓迎したのだった。  だが、日本軍は南京市民のそのような期待を斷然かつ冷酷にふみにじったのである。  日本軍は南京市內でただちに、國府軍指導部に見捨てられ地下に潛入した中國人兵士の徹底的な捜索を開始した。  この措置は、國際的に承認された戦爭のルール下で認められるものだったが、松井大將の軍隊はそれを目を覆わんばかりのどう猛性をもって実行したのである。  兵役の年齢に達したすべての青年を一斉検挙して、大規模な機関銃掃射や、連続的な首切りによる処刑を行ったりした。  こうした処刑は、ときには恐怖に怯えた傍観者の眼前で行われた。  さらに悪質な行為が続いた。  市內を徘徊する日本兵の群れは、民間人を手當たり次第に殺害し始めた。  老若男女のみならず、妊婦の胎內にいる胎児までもが、棍棒、銃剣、小銃、松明(トーチ)、そして日本刀などで無差別に襲撃されたのである。  松井大將配下の兵士たちは、銃剣訓練のために生身の中國人や、その死體を使っている。  彼等は數え切れないほどの中國人を拷問にかけ、手足を切斷するなどして、不具にしているのだ。  著者チャンの記述によると、日本兵は中國人の舌に鉤(かぎ)をかけて宙吊りにしたり、酸に漬けたり、手足を切り離したり、手榴弾で殺害したり、刺し殺したり、焼き殺したり、革を剝いだり、凍死させたり、生き埋めにしたりした。  また、日本兵は無數の婦女子を強姦することによって、南京虐殺のこの不名譽なエピソードに「ザ・レイプ・オブ・南京」という、この事件が以後永遠に知られるようになった名前を授(さず)け、それがチャンの著書にタイトルとしても使われたのである。

俗説に加えてセンセーショナル

 血なまぐさく、ぞっとするような話を好む読者は、この本に決して失望すまい。  著者はあからさまな殘虐行為の多くを堪(た)え難いほどの詳細さで描寫しており、グロテスクな光景を言葉だけでは表現出來ない一連の寫真を掲載することで、記述を補足している。  南京大虐殺は、いかなる尺度で考えても破局的な恐怖の事件だが、著者はその恐怖の度合いを計る自分なりの尺度を読者に提供している。  例えば、中國人の死體を積み上げたらどれ程の高さに達しただろうかを詮索し、日本軍の狼藉によって流された中國人の血の総重量まで紹介しているのだ。  しかし、俗説を信じ込む傾向と相まって、センセーショナルな表現に走る傾向が、殘虐行為に関する記述を特徴付けてはいるものの、著者が引用する証拠の數々が、日本軍の振る舞いに対する決定的な告発であることに疑いの餘地は無い。  南京大虐殺、戦爭と戦爭犯罪の悲しむべき記録の中で、極端に悪質な怪異的事件として突出している。  當時の日本の外相、広田弘毅ですら、1938年の南京視察旅行のあとでこう述べている。  「日本軍は、フン族の王アッチラ大王とその部下を思わせるように(殘虐に)振舞った。少なくとも30萬人の中國人市民が殺害されたが、多くは冷酷な死を遂げた」(末尾注・參照)  當時、南京市には、皮肉にも「安全地帯」と名付けられた一角があった。  これは、同市在住の20數名の外國人によって慌しく結成された「國際委員會」のいささかな頼りない保護の下で運営されており、何萬人もの難民が避難しいていた。  しかし、殘虐行為はこのゾーンでさえ繰り広げられたのである。  委員會はこの暴虐の饗宴について日本當局に繰り返し抗議し、委員達が表現をいくぶん和らげて「無秩序の事例」と呼んだ暴虐を正式に文書にまとめる作業を開始した。  1939年、同委員會は南京虐殺の425件の事例をまとめた、厳粛かつ法的手続きに基づく記録を発表した。  委員會によるこの証言に、チャンはさらにその他の事件を加えている。  それらのうちのいくつかは、戦後行われた極東國際軍事裁判の記録、1937年に南京に取り殘された數名のアメリカ人宣教師が帰國後エール大學神學校の図書館に保管した書類、さらにチャン自身が発掘した驚くべき文書・・・・つまり、南京の「安全地帯」を管理した國際委員會の委員長、ジョン・H・D・ラーベが殘した日記・・・などから引用されている。

チャン本の根拠はあのバーガミニ

 ラーベはあらゆる點で特筆に値する人物だったが、思いがけず英雄の役割を演ずることになった。  南京が修羅場と化している真っ只中で、日本人將校がラーベに尋ねた。  「君はなぜここに留まったのか。ここで起こっていることは、お前にとってどのような意味があるのだ。」  これに対してラーベは、「私の子供たちも孫たちも、全員ここで生まれた。私はここに住んでいて楽しいし、成功もしている」と答え、次のようにくけ加えている。  「私は中國の人々にいつも大切にしてもらってきた」と。  ラーベはドイツ人のビジネスマンで、1882年にハンブルグで生まれている。  中國には1908年から住み、主としてシーメンス社に勤務していた。  中國語を學び、中國を愛するようになり、中國人の社員を非常に丁寧に扱った。  また、ラーベはナチ黨員でもあった。  自分の監督下で働いていた數名の外國人と共に、ラーベは數え切れないほどの中國人を日本軍の絶対的な権力から守ったが、時には自分の権威を誇示するためにハーケンクロイツを描いた腕章を日本兵の方に押しやったり、ナチの勲章をちらつかせたりした。  著者がラーべを「中國のオスカー・シンドラー」と呼ぶのも、理由が無いわけではないのである。  普通では有り得ないようなこの話は、確かに人間性の持つ善悪両面と、計り知れない神秘について読者に考えさせるものではある。  しかし、南京大虐殺がなぜ起こったかについて説明するチャンの努力には、事件の裏に潛む、ラーベの場合と同じように複雑な背景を理解しようとする意識は感じられない。  日本軍の規律がどのような形で亂れ、あのように信じ難いほど墮落することになったか。  日本軍の行動は、中國人を恐怖に陥れるために高度のレベルで下された意図的な政策決定の結果だったのか。  日本帝國陸軍が犯した殘虐行為は、日本人の民族的性格に見られる何らかの道徳的欠陥に起因するのか。  それとも、中國人に対する民族的憎悪を掻き立てた、陸軍の計畫的な教化のせいか。  あるいは、正気を失った現地司令官たちの屈折した心情の産物なのか。  教育不十分で酷使され続けた兵士たちの、上官たちに対する大規模な不服従の結果か。  または、揚子江のそれまでの長い歴史と環境・・・・、特に上海から揚子江流域上流に向けて展開され、1937年12月13日の南京の悪夢で頂點に達した日本軍の血塗られた作戦・・・・これらが、人間の心に宿る悪魔を偶然解き放ったということなのだろうか。  チャンはこれらの解釈のいくつかについて考察するものの、いずれも厳密に探究していない。  南京虐殺は日本政府の最高首脳部が下した正式な政治的決斷だと主張したがっているのは明らかだが、この議論の事実唯一の支持者が、彼女が文中で頻繁に引用しているデビッド・バーガミニである。  バーガミニは、明らかに奇抜な論點に基づいて書かれた自著、『天皇の陰謀』(1971年)で、南京虐殺とその他の殘虐行為を正面から天皇ヒロヒトの責任であると決め付けようとした。  しかしチャンは「不幸にして、バーガミニの著作は定評ある歴史家たちの痛烈な批判を浴びている」點を認めざるを得なかった。  だが、これは控えめな表現というものだ。  現に評者の1人は、バーガミニの記述は、「歴史ドキュメンタリー作成のあらゆる基準を無視した場合にのみ信用できる」と述べているのである。  歴史家のバーバラ・タックマン女史は、バーガミニの主張は、「ほぼ完全に、著者の推論と悪意ある解釈を好む性向の産物である」と述べている。  だが、それでもチャンは、少なくとも「ヒロヒトは南京虐殺について知っていたに違いない」との結論を下すことを自製できなかった。  天皇が南京事件を起こしたと言っているわけでは無い。  だが、それでもこの主張には、長期にわたって信憑性を否定されてきたバーガミニの主張に対するチャンの心酔の度合いの、わずかではあるが決して疑う餘地のない殘滓(ざんし)が見られるのだ。  別の箇所でチャンは、「本書は日本人の性格について論評するために書かれたものではない」と宣言しているが、その直後、千年の歳月を経て培われた「日本のアイデンティティ」の探索を始めているのである。  彼女の判斷では、それは軍人たちの巧妙爭い、サムライの倫理、そして、武士道というサムライの行動を律する恐ろしい規範からなる、血なまぐさい所業であり、先の否定宣言にもかかわらず、彼女は明らかに「南京への道」は日本文化のまさに核心を貫いているに違いないと推論しているのである。  結論を言えば、この著作は南京虐殺がなぜ起こったかについての解説よりは、虐殺事件の描寫の點ではるかに優れた作品である。  こうした欠陥の一部は、チャンが依存した情報に起因する。  いくつかの例外を除けば、チャンは南京の中國人犠牲者と「安全地帯」に殘った白人たちの観點からのみ事件を語っているのだ。  彼女が引用する証拠は、加害者達の精神性に関するいかなる洞察の根拠も、ほとんど提供していない。  また、日本陸軍の研究に取り組む2人の研究者が「帝國陸軍が中國人に加えた殘虐な行為の海に殘した最高水位點の1つに過ぎない」と表現した、南京を中心としに繰り広げられた殘虐行為に焦點を絞ったことは、日本軍の振る舞いに関して包括的な解明を施そうとする彼女の努力に水をさすことになっている。  彼女は、クリストファー・ブラウニングの『Ordinary Men(普通の男たち)(1922年)』や、オマー・バートフの『The Eastern Front, 1941-1945(東部戦線、1941-1945年)』(1985年)のような作品に読者が見る、ナチの殘虐性の動機に関するニュアンスに富んだ慎重な分析に匹敵する考察はほとんど行っていない。  また、結果的にドイツ民族全體にホロコーストの犯罪があるとした、ダニエル・ゴールドハーゲン著の平板ながら挑発的な『Hitler's Willing Executionaers(ヒトラーの意欲的な死刑執行人たち)』(1996年)のように広い視點でドイツ人をとらえた議論に匹敵する考察さえも行っていないのだ。  そのようなわけで、南京虐殺のショッキングな描寫にもかかわらず、南京で起こった事件はホロコーストに見られる組織的な殺戮と同一視されるべきであると結論を下す理由を、チャンは読者に與えていないのである。  ホロコーストがヒトラーの意図的政策忌まわしい所産として発生したエピソードであることには議論の餘地がない。  それは、戦爭につきもののありきたりの事件でも、個人による殘虐行為の異常形態でもなかったし、規律の不徹底な軍隊が血に飢えて荒れ狂った結果として起こった事件でもなかったのだ。  ホロコーストでは、近代的官僚國家のあらゆる機構と最先端を行く殺しのテクノロジーが、冷酷な大量殺戮に応用されたのである。

「誤っている」より「誇張」

 チャン本の主要なモチーフは、分析と理解というよりは、むしろ非難と憤激である。  そして、憤激は南京虐殺に対して道義的には確かに必要だが、知的には不十分な対応なのである。  チャンの怒りはどのような目的に向けられているのだろうか。  要するに、日本を「國際社會の世論という審査の場」に引き立てて、戦爭犯罪を認めさせることなのだ。  彼女は南京虐殺に関する西側社會の無知と主張する狀態と、數名の日本の政治家が虐殺事件を否定した事実を、手厳しく非難する。  日本は「今日に至るも変節的國家であり続ける」と彼女は書き、その理由を「(日本は)ドイツがあの悪夢の時代のおぞましい行為の責任を取るために認める事を余儀なくされた、文明社會による道徳的審判をうまく迴避しているからである」、と述べている。  南京虐殺に関する西側の無関心と日本による否認は、「(南京の)2度目のレイプ」であり、死者の尊厳を汚し、歴史の主張を冒涜する行為だと彼女は言う。  『シンドラーのリスト』に匹敵するものが南京にないのはなぜか、と彼女は問う。  『「No」と言える日本』の著者の石原慎太郎のような日本の國粋主義者が、なぜ南京虐殺を「中國人がでっち上げた・・・噓」と言ってのけられるのか、と言うチャンは、次のような結論を下している。  「日本政府は、少なくとも犠牲者に対して正式な謝罪を表明し、日本軍の狂奔の最中に生活を破壊された人々に補償金を支払い、そして最も重要なこととして、次の世代の日本人に虐殺に関する真実を教えることが必要である」、と。  彼女の要求は誤っているというよりは、むしろ誇張されているのである。  同様に、現代日本に対する彼女の諸要求は、正當ではないというよりは、むしろ少なくとも部分的にはすでに満たされているという點で「言い過ぎ」なのである。  事実、西側社會は當時もその後も、南京虐殺事件を無視していない。  1937年12月、アメリカの関心は揚子江下流地域に集中していたが、これは単に南京攻撃中の日本軍航空機がアメリカの砲艦「パネー」號を撃沈したことだけが理由ではなかった。  避難民を満載した450トンで2階建てのこの砲艦は當時、南京のすぐ近くに停泊中であり、艦首と艦尾のデッキ、そしてすべてのマストに取り付けた大型の米國旗から、アメリカ艦籍であることは一目瞭然だった。  アメリカの大衆は當時は知らなかったことだが、実は「パネー」號は、衰退の一途にあった南京市の守備隊と南京脫出を果たした蔣介石との間の電波通信の中継地點という、あまり潔白とは言えない役割を果たしていたのである。  撃沈をめぐるアメリカ國內の騒ぎは、國際的に大いに宣伝された日本の外務大臣による一連の謝罪、事件を起こした飛行士達の上官の更迭、攻撃で命を失った犠牲者に対する禮砲発射を伴う日本海軍の謝罪、日本政府による合計220萬ドルの賠償金の支払いなどが行われた後、漸(ようや)く下火になった。  これらの行為はすべて、熟慮の結果なされたものであり、日本側の公式な自責の念と、中國各地の日本軍司令官ならびに個々の兵士たちを統率する能力に関して日本政府関係者が抱いていた深刻な懸念の証だった。  同じ頃、アメリカの新聞は南京虐殺について、身の毛もよだつような報道を広範に行っている。  ニューヨーク・タイムズの中國特派員、F・ティルマン・ダーディンは、1937年12月17日、同紙一面に大見出し付きで掲載された記事の中で、「大規模な略奪、婦女暴行、民間人の殺害、住居からの住民の追い立て、そして健康な男性たちの強制的徴用は、南京を恐怖の都市に変貌させた」と報じている。  その後、南京虐殺は戦時反日プロパガンダの中核となり、特にフランク・キャプラ監督が製作し、全米の軍事教練基地にいる百萬人ものアメリカ兵や一般映畫館に詰め掛ける何百萬人ものアメリカ市民のために上映された『我々はなぜ戦うか』シリーズの1つ、『バトル・オブ・チャイナ(中國における戦闘)』はその顕著な一例である。  また、日本政府は戦時中の犯罪を認めることを頑強に拒否しているとのチャン氏の主張は、丸ごと正しいとは言えないし、日本は戦爭犯罪に対して遺憾の意を表していないという指摘も誤りである。  こうした非難は近年における西側の対日批判の常套句(じょうとうく)になっているが、それが恐らく最も如実に示されているのが、ドイツと日本における戦爭の記憶に関する研究書として1994年に発表された、作家イアン・プルーマの『Wages of Guilt』(1994年、邦訳『戦爭の記憶』TBSブリタニカ)だろう。  同著の総合的な主張は、「(戦爭犯罪を)記憶に止める度合いは、ドイツは過度であり、日本は過少である」という點に要約できよう。  1980年代の前半、日本の文部省は中學校の教科書が南京虐殺や戦時中のその他の不祥事を取り上げることを阻止しようとしたし、1988年には日本の映畫配給會社がベルナルド・ベルトリッチ監督の『ラスト・エンペラー』の中の、南京虐殺を描いた30秒間にわたるシーンを削除しようと試みたが、これは現実には不首尾に終わっている。  また、戦犯を含む戦沒者を祀る東京の靖國神社への參拝は、右翼政治家たちにとっては今もって義務であるのは確かだ。  しかし、日本の左翼は事件について聲高に語る事によって、南京虐殺の記憶を長いこと絶やさずにきているのである。  そして、ジョン・ダワー教授が最近指摘した通り、1995年6月9日、衆議院は第2次世界大戦中に日本が他民族に及ぼした苦痛に対して「深い反省」の意を表明し、2人の総理大臣が他國に対する帝國日本の侵略についてはっきりと謝罪していることもまた、事実なのである。  ダワー教授はさらに、「戦爭責任・・・に関して民衆のレベルで日本人が話すことの內容は・・・國外で一般的に理解されている以上に多岐にわたるもの」であり、「日本以外のマスコミは、保守的な文部省が承認する現在の教科書は、1980年代末までの狀態と比較すれば、日本の侵略や殘虐行為についてより率直に記述している點を報道することを総じて怠っている」と指摘している。  殘虐行為が戦爭を追いかけるように、歴史もまた、戦爭を追いかける・・・・チャン本はこの教訓を執拗に立証するものである。  しかし、日本ほどに無言を美徳とする文化の中にあっても、悪事はいつか必ず露見するのだ。  だが、南京虐殺事件の背景について萬人が納得するような説明はいまだなされていないのであり、チャン本も極めて不完全な説明しか施していないのである。

(編集部注 著者が引用しているこの文書は、1938年1月17日付で外務省からワシントンの日本大使館に広田外相の名前で発信された暗號電報を解読したものとして、1994年にアメリカ公文書館によって解禁され、以來中國側は同文書を「広田電」として宣伝している。  しかし、広田外相は當時國內におり、南京視察は行っていない。  実はこの文書は、イギリスの「マンチェスター・ガーディアン」紙中國特派員、H・J・ティンパーリーが書いた記事を現地の日本當局が検閲・押収したものであり、「アッチラ大王」や「フン族」などへの言及からしても日本人らしからぬ発想であり、「広田電」では無いとみられている。)

利用者‐會話:廢科舉 編輯

ご投稿は意味のある文章でお願いします。 こんにちは。ご投稿は意味のある文章でお願いします。あなたが劉暁波でなさったような投稿は荒らし投稿とみなされます。もしテスト投稿がしたければ、テスト専用ページWikipedia:サンドボックスの使用をおすすめします。このほか便利な機能をいろいろ紹介するガイドブックもご參照ください。あなたのウィキペディア・ライフが充実したものでありますように。--花蝶風月雪月花警部(會話) 2017年7月28日 (金) 09:53 (UTC) 荒らし行為はやめてください。 荒らし行為はやめてください。あなたがこれ以上、劉暁波でなさったような投稿を続けると、ウィキペディアの編集ができなくなる投稿ブロックの対象となります。ご注意ください。--花蝶風月雪月花警部(會話) 2017年8月6日 (日) 06:12 (UTC) 目次 [非表示] 1 松尾氏の私見は不要 2 要約欄に関して 3 ブロックのお知らせ 4 対話は中斷していない限り、ブロック依頼及びその決定はすべきではない、対話中の無期限ブロック延長依頼は表現の自由を害する行為として非難されるべきである 4.1 ブロックに対する異議 5 日本語ウイキペディアの信憑性はこれ以上に傷つかれないように、速やかなブローク解除が求められます。 6 中國(軍、軍隊、部隊、軍人)と中國人(部隊、軍隊、軍人)の使い分けについて

松尾氏の私見は不要[ソースを編集] 編輯

南京事件 (1937年)で、松尾氏の私見は不要です。SPAM行為となるので2度としないで下さい。--JapaneseA(會話) 2017年8月8日 (火) 05:29 (UTC) 異議: 舊日本陸軍士官出身者による親睦団體「偕行社の『南京戦史』は松尾 一郎の私見ではない。——以上の署名の無いコメントは、廢科舉(ノート・履歴)さんが 2017年8月8日 (火) 08:00 (UTC) に投稿したものです(JapaneseA(會話)による付記)。 まず、発言の後には署名して下さい(Wikipedia:署名にやり方が書いてあります)。「南京戦史」がダメなのではなく、それを掲載しているサイトの事を言っています。例えば私の個人サイトに信頼できる情報源を載せたとしても、それにリンクする事は不適切です。こういう場合は、URLは不要で、書籍情報を提示すればそれで良いのです。後ほど修正しておきますので御覧下さい--JapaneseA(會話) 2017年8月8日 (火) 08:22 (UTC) 修正しました。もし御存知であれば、號とページ番號を記載しておいて下さい。なお、言うまでもありませんが南京事件という大きなテーマの外部リンクに、松尾氏個人サイトの掲載は不適切です。--JapaneseA(會話) 2017年8月8日 (火) 08:29 (UTC) 御編集が納得できます。一読の価値がありますが、情報源としての厳密さが多少は欠く。號とページ番號の把握に努力します。廢科舉(會話) 2017年8月8日 (火) 09:00 (UTC) 御理解感謝致します。また、「南京戦史」を提示したかったという意図を見抜けず御詫び申し上げます。--JapaneseA(會話) 2017年8月8日 (火) 09:04 (UTC) ご丁寧に、どうも宜しくお願い致します。廢科舉(會話)

要約欄に関して[ソースを編集] 編輯

こんにちは、南京事件 (1937年)におけるあなたの編集ですが、「通州事件は日本軍影響のもとに置かれた親日武裝の叛亂、中國軍の組織的な武力行使ではない」と要約欄に記入されたことの真意をお伺いします。はっきり申し上げますが、あなたの獨自研究以外の何かと言えますか。Wikipediaを個人の主張の場とでも勘違いされてはいないでしょうか?もし今後もこういった認識を持ち続けられるのであれば、不適切であるとお伝えします。--変な人ではない(會話) 2017年8月8日 (火) 09:23 (UTC) こんにちは、獨自研究と考えられるようなご理由を伝えてくれませんか?——以上の署名の無いコメントは、廢科舉(ノート・履歴)さんが 2017年8月8日 (火) 10:29 (UTC) に投稿したものです(変な人ではない(會話)による付記)。 あなたのご主張は通説とかけ離れており、こちらで調べても全く裏付ける史料が見つからなかったためです。むしろあなたが「通州事件は日本軍影響のもとに置かれた親日武裝の叛亂」などと主張されている根拠をお示し下さい。--変な人ではない(會話) 2017年8月8日 (火) 10:41 (UTC) あなたはこちらの主張を裏付ける史料が見つからなかったとお伝えてくれても驚く必要はありませんが、こちらの主張を覆すような史料も見つかりませんでしたか?もし見つかったら、お伝えてくれませんか? あなたはここでの対話をつづけながら、ブロックの延長依頼を行ったことは適切さを欠くと考えておりますが、ブローク依頼ページに異議を附す予定です。ご覧になれますように。廢科舉(會話) 2017年8月9日 (水) 04:12 (UTC) あなたの主張を覆す資料をこちらが提示する必要はありません。初めからないものを出せというのは悪魔の証明であり、不可能なことです。また、ここでの発言や他の場でのあなたの行動を參照すると、あなたはご自分の意見を曲げないため、対話が成立しません。人のことを批判する前に何故1週間のブロックとなったのか考えて下さい。--変な人ではない(會話) 2017年8月9日 (水) 07:14 (UTC) あなたは通州事件が「中國軍」の所業だったというあなたご自身の主張を裏付ける史料を見つけることは悪魔しかできないこと、及びこれからの対話を拒否することをお伝えてくれたと受け止めても差し支えはありませんか?廢科舉(會話) 2017年8月9日 (水) 07:44 (UTC)

ブロックのお知らせ[ソースを編集] 編輯

あなたはブロックされました。 あなたはブロックされました。しばらくウィキペディアの編集を行うことはできません。ブロックは時間がたつと自動的に解除されます。解除後、基本的な決まりを守って參加するなら、あなたの投稿は歓迎されます。今後の対話ならびに異議申し立て、解除依頼はあなたの會話ページで受け付けます。會話ページも編集できないブロックの場合は、IRCの#wikipedia-ja-unblock、もしくはメーリングリストで、會話ページの編集許可を求めてください。(ヘルプ、投稿ブロックへの異議申し立て・投稿ブロック解除依頼作成の手引き參照) 複數の記事において編集合戦になっているため、あなたの投稿を制限しています。今一度、方針等をご確認くださいますようお願いいたします。いかなる理由があっても編集合戦をしてもよいという理由にはなりません。--アルトクール(會話) 2017年8月8日 (火) 10:50 (UTC) Wikipedia:投稿ブロック依頼/廢科舉 延長を提出しました。--変な人ではない(會話) 2017年8月8日 (火) 12:49 (UTC)

対話は中斷していない限り、ブロック依頼及びその決定はすべきではない、対話中の無期限ブロック延長依頼は表現の自由を害する行為として非難されるべきである[ソースを編集] 編輯

ブロックに対する異議[ソースを編集] 編輯

廢科舉 (會話 · 投稿記録 · 削除された投稿 · ログ · 不正利用記録 · ブロック記録 · ブロック)からのブロック解除の依頼は、現在、ブロックを実施した管理者からのコメントを待っており、保留狀態です。 ブロックを実施した管理者: アルトクール(會話 | 投稿 | ブロック | 保護 | 削除 | 移動) ブロックの再検討を行っている管理者: [[利用者:{{{3}}}]]([[利用者‐會話:{{{3}}}|會話]] / [[特別:Contributions/{{{3}}}|投稿記録]]) ブロック解除の理由: 當該ブロック延長依頼の卻下、ブロック決定の取り消し及びブロック依頼の無効確認を求める理由に関しては以下の通りです: ① 當該ブロックの依頼、決定及び無期限延長依頼は被依頼者と依頼者間の対話が進んでいるうちの不意打ちのような出來事でしたから、以下のブロック依頼に関する規則に反すると主張します。 ❶投稿ブロックおよびその依頼は制裁・懲罰や個人攻撃・報復のための手段としてあるものではありません。❷利用者間でトラブルが発生した場合には、いきなり投稿ブロックを依頼するのではなく、まず論爭の解決に従い、対話と合意での解決を目指してください これからも被依頼者が依頼者との対話を続けるつもりですが、ブロックされたまでの対話內容及び経緯(時間)は利用者‐會話:廢科舉#要約欄に関してを參照してください。 ② 依頼者は被依頼者の劉暁波に関する編集記録も証拠にしましたが、當該編集トラブルはすでに管理権によって最終的に解決済みとなっております以上、再び提起するのは一事不再理の一般原則に反します。 そして、依頼者が非難しているいわゆる敬稱問題(特別:差分/64850640、特別:差分/64852041、特別:差分/64868824)、いわゆる特定の文言問題(特別:差分/64881834、特別:差分/64917370、特別:差分/64924620、特別:差分/64926689、特別:差分/64929332、特別:差分/65014865)及びいわゆる出典問題(特別:差分/65015578、特別:差分/65015742、特別:差分/65020161、特別:差分/65027454)も、當該編集トラブルの當事者間の対話(要約欄記載)によって自主的に解決できたことですから、いわゆる編集合戦の問題と見されるべきではありません。 さらに、無期延長依頼文のなかでも依頼者は被依頼者に対して「獨自研究を幾度も掲載しています」と非難していても、一貫して他人を裁くための絶対的な権限をもっているように結論だけを出し、未だに具體的な根拠を示してくれていません。 Wikiの獨自研究規則を理解していますが、思考停止がしなかったことは研究作業に當てはまりません。他人による研究なら、何でもかんでも根拠となるわけはありません。 ③ 被依頼者が劉暁波に関して行った內容上の編集(用語編集除く)はすべでwikiの內部リンクに基づいていますが、編集トラブル相手は出典も付いていない外部リンクの內容を優先的に依拠しています(ノート:劉暁波#諸閲覧者へ及びノート:劉暁波#身柄拘束中のまま死去したノーベル平和賞受賞者を參照してください)。 ④ 依頼者は被依頼者が他編集者に対して「個人攻撃を連発した」と非難していますが、根拠を示してくれませんでした。 以上

ブローク解除理由の補足(8月10日): 編輯

ブローク依頼者との間で行った2017年8月9日の対話は以下のように記録されている: あなたはこちらの主張を裏付ける史料が見つからなかったとお伝えてくれても驚く必要はありませんが、こちらの主張を覆すような史料も見つかりませんでしたか?もし見つかったら、お伝えてくれませんか? あなたはここでの対話をつづけながら、ブロックの延長依頼を行ったことは適切さを欠くと考えておりますが、ブローク依頼ページに異議を附す予定です。ご覧になれますように。廢科舉(會話) 2017年8月9日 (水) 04:12 (UTC) あなたの主張を覆す資料をこちらが提示する必要はありません。初めからないものを出せというのは悪魔の証明であり、不可能なことです。また、ここでの発言や他の場でのあなたの行動を參照すると、あなたはご自分の意見を曲げないため、対話が成立しません。人のことを批判する前に何故1週間のブロックとなったのか考えて下さい。--変な人ではない(會話) 2017年8月9日 (水) 07:14 (UTC) あなたは通州事件が「中國軍」の所業だったというあなたご自身の主張を裏付ける史料を見つけることは悪魔しかできないこと、及びこれからの対話を拒否することをお伝えてくれたと受け止めても差し支えはありませんか?廢科舉(會話) 2017年8月9日 (水) 07:44 (UTC) (利用者‐會話:廢科舉#要約欄に関して參照してください) 以上の対話記録によって、ブローク依頼者は史料に裏付けられた理由もないまま、被依頼者の編集內容を繰り返して取消したこと、対話も拒んだこと、及び力ずくで史実を曲げることに誇りも持っていることが明らかになったから、ブロック依頼者が日本語ウイキペディアの信憑性を公然に傷つけたほどの編集規則の重大な破壊行為者に認定されるべきである。よって、當該ブロック依頼の根拠は完全に失いました。 2017年8月10日 ブロック実施管理者のコメントがあった後に、このテンプレートを下記のテンプレートと交換してください。: {{unblock|1=当該ブロック延長依頼の却下、ブロック決定の取り消し及びブロック依頼の無効確認を求める理由に関しては以下の通りです: ① 当該ブロックの依頼、決定及び無期限延長依頼は被依頼者と依頼者間の対話が進んでいるうちの不意打ちのような出来事でしたから、以下のブロック依頼に関する規則に反すると主張します。 [[Wikipedia:投稿ブロック依頼|❶投稿ブロックおよびその依頼は制裁・懲罰や個人攻撃・報復のための手段としてあるものではありません。❷利用者間でトラブルが発生した場合には、'''いきなり投稿ブロックを依頼するのではなく、まず[[wikipedia:論争の解決|論争の解決]]に従い、対話と合意での解決を目指してください]] これからも被依頼者が依頼者との対話を続けるつもりですが、ブロックされたまでの対話内容及び経緯(時間)は[[利用者‐会話:废科举#要約欄に関して]]を参照してください。 ② 依頼者は被依頼者の[[劉暁波]]に関する編集記録も証拠にしましたが、当該編集トラブルはすでに管理権によって最終的に解決済みとなっております以上、再び提起するのは一事不再理の一般原則に反します。 そして、依頼者が非難しているいわゆる敬称問題([[特別:差分/64850640]]、[[特別:差分/64852041]]、[[特別:差分/64868824]])、いわゆる特定の文言問題([[特別:差分/64881834]]、[[特別:差分/64917370]]、[[特別:差分/64924620]]、[[特別:差分/64926689]]、[[特別:差分/64929332]]、[[特別:差分/65014865]])及びいわゆる出典問題([[特別:差分/65015578]]、[[特別:差分/65015742]]、[[特別:差分/65020161]]、[[特別:差分/65027454]])も、当該編集トラブルの当事者間の対話(要約欄記載)によって自主的に解決できたことですから、いわゆる編集合戦の問題と見されるべきではありません。 さらに、無期延長依頼文のなかでも依頼者は被依頼者に対して「独自研究を幾度も掲載しています」と非難していても、一貫して他人を裁くための絶対的な権限をもっているように結論だけを出し、未だに具体的な根拠を示してくれていません。 Wikiの独自研究規則を理解していますが、思考停止がしなかったことは研究作業に当てはまりません。他人による研究なら、何でもかんでも根拠となるわけはありません。 ③ 被依頼者が[[劉暁波]]に関して行った内容上の編集(用語編集除く)はすべでwikiの内部リンクに基づいていますが、編集トラブル相手は出典も付いていない外部リンクの内容を優先的に依拠しています([[ノート:劉暁波#諸閲覧者へ]]及び[[ノート:劉暁波#身柄拘束中のまま死去したノーベル平和賞受賞者]]を参照してください)。 ④ 依頼者は被依頼者が他編集者に対して「個人攻撃を連発した」と非難していますが、根拠を示してくれませんでした。 以上 '''ブローク解除理由の補足'''(8月10日): ブローク依頼者との間で行った2017年8月9日の対話は以下のように記録されている: あなたはこちらの主張を裏付ける史料が見つからなかったとお伝えてくれても驚く必要はありませんが、こちらの主張を覆すような史料も見つかりませんでしたか?もし見つかったら、お伝えてくれませんか? あなたはここでの対話をつづけながら、ブロックの延長依頼を行ったことは適切さを欠くと考えておりますが、ブローク依頼ページに異議を附す予定です。ご覧になれますように。[[利用者:废科举|废科举]]([[利用者‐会話:废科举|会話]]) 2017年8月9日 (水) 04:12 (UTC) :'''あなたの主張を覆す資料をこちらが提示する必要はありません'''。初めからないものを出せというのは悪魔の証明であり、不可能なことです。また、ここでの発言や他の場でのあなたの行動を参照すると、あなたはご自分の意見を曲げないため、'''対話が成立しません'''。人のことを批判する前に何故1週間のブロックとなったのか考えて下さい。--[[利用者:変な人ではない|変な人ではない]]([[利用者‐会話:変な人ではない|会話]]) 2017年8月9日 (水) 07:14 (UTC) あなたは[[通州事件]]が「中国軍」の所業だったというあなたご自身の主張を裏付ける史料を見つけることは悪魔しかできないこと、及びこれからの対話を拒否することをお伝えてくれたと受け止めても差し支えはありませんか?[[利用者:废科举|废科举]]([[利用者‐会話:废科举|会話]]) 2017年8月9日 (水) 07:44 (UTC) ([[利用者‐会話:废科举#要約欄に関して]]参照してください) 以上の対話記録によって、ブローク依頼者は史料に裏付けられた理由もないまま、被依頼者の編集内容を繰り返して取消したこと、対話も拒んだこと、及び力ずくで史実を曲げることに誇りも持っていることが明らかになったから、ブロック依頼者が日本語ウイキペディアの信憑性を公然に傷つけたほどの編集規則の重大な破壊行為者に認定されるべきである。よって、当該ブロック依頼の根拠は完全に失いました。 2017年8月10日}} 廢科舉(會話) 2017年8月9日 (水) 07:28 (UTC)

①について。私はあなたと対話をしました。その過程はあなたもご提示されているように、この會話ページに殘っています。既にブロックされている方との対話ですから、本來ならば対話を挾まずにいきなりブロックの延長依頼に持っていっても良かったのですが、あなたにもご主張があるだろうと考えて話し合いを試みたのです。しかしそれは無駄に終わったようで殘念です。ある事柄についてブロックを受けているのであれば、その一點においてはあなたのした行いは誤りだったということです。
②について。ノート:劉暁波で論爭相手の方を批判した上で、対話拒否を宣言するに至った方の発言とは思えませんね。あなたが一方的に解決したと主張されても、現狀では劉暁波の記事は問題のある版のまま保護されてしまっています。そのため、未だに敬稱が付與されたり特定の文言のままだったり…といった問題は記事に殘っています。保護期間が過ぎたら私は差し戻しますが、あなたの仰る「管理権によって最終的に解決済み」というのは全くの方針に対する無理解です。編集合戦が起きれば管理者は版を選ばずに保護します。その保護が行われた版で一時的に固まるだけであり、期間中にどちらの編集が適切か當事者の間で話し合うのです。これはWikipediaのどの言語版であっても同じかと思いますが、あなたは全く方針を理解していないのですね。獨自研究についても私や他の方々から受けた指摘を真摯に受け止めない限り、あなたが気付けないことは分かりました。
③について。Wikipedia內の記事は出典に成り得ません。外部サイトの出典を取り消してWikipedia內のリンクに変えることが不適切だと認識出來ないのは、あなたが方針を理解していないからです。
④について。ブロックの延長依頼における私の依頼文を読んでご自身の個人攻撃を認識出來ないのであれば、私から申し上げることはありません。無期限への延長票の數が、あなたに対するコミュニティの不支持を象徴しています。
補足について。私が前の節でした反論を読み直して下さい。私はあなたの主張を裏付ける史料がないと言っているのです。腕ずくで史実を曲げているのはあなたです。実際の會話を歪めて伝えるのはおやめ下さい。--変な人ではない會話) 2017年8月16日 (水) 05:26 (UTC)
  • Template:× 卻下と言いますか、ブロック解除申請の手続きに則っていないため、申請自體が無効です。--アルトクール會話) 2017年8月18日 (金) 09:33 (UTC)

アルトクール:あなたには管理権行使に相応する程度の能力はないことを再び言わせないでください。廢科舉會話) 2017年8月18日 (金) 09:46 (UTC)

こちらは行った操作は通常の通り、該當箇所をコピーした上で編集ページに貼り付けるだけなので、あなたの方の編集システムに異変が生じたではないか?なお、いわゆる編集合戦とは片方の行動で起こられない以上、原因を精査しない限り、結論を出すのは理不盡ではないか?廢科舉會話) 2017年8月18日 (金) 10:05 (UTC)

廢科舉さん、落ち着いてください。アルトクールさんの言う通り、方針とガイドラインを理解できないなら編集をおやめてください。冷靜一點好不好?--Lanwi1會話) 2017年8月18日 (金) 10:28 (UTC)

日本語ウイキペディアの信憑性はこれ以上に傷つかれないように、速やかなブローク解除が求められます。[ソースを編集] 編輯

ただし、ブロック依頼者及びブロック延長依頼者らに対するブロック依頼をするつもりはありません。史実が歪まれたことも史実であり、見直された経緯のなかで、それなりに記録される価値があるからです。廢科舉(會話) 2017年8月10日 (木) 03:32 (UTC) 補足:

ブローク決定者の[アルトクール]の管理権を制限されるべきであると主張します。廢科舉會話) 2017年8月10日 (木) 10:59 (UTC)

*ブロック依頼者、決定者と延長依頼者らは事実を把握しようとする意識またはその力も著しくかくので、全員に管理権限及びブロック依頼と延長依頼権限を永久に預けないように強く主張します。その上、延長依頼ページで明らかにデマを撒いていた森藍亭を強く非難します。再び、日本語ウイキペディアの信憑性がこれ以上傷つかれないように、速やかなブロック解除を求めます。廢科舉會話) 2017年8月13日 (日) 04:16 (UTC)

公然かつ淡々とデマを流しながら、無実な人を裁くための権限を手にして、清き一票を投じるぞ~といわんばかりの一握りの連中が騒々しい道化芝居を世界の前に呈していることは、多分、日本語ウイキペディアの歴史上ではごく稀に見られる珍景でしょう。廢科舉會話) 2017年8月13日 (日) 18:49 (UTC)

日本語ウイキペディアは赤裸々に私物化されたことに憤りを禁じ得ない。まじめな顔で日本語を弄りじながら、日本人の民度及び日本という國の品位を公然に踏みにじり、無実な人を利用目的わい曲まで中傷することは信じられへんほどの荒唐無稽である。しかし、連中らはユーザー名の後ろに隠して僅かな奨勵ももらえるかもしれない。こんな連中なら金でしか動かないでしょう。廢科舉會話) 2017年8月15日 (火) 00:07 (UTC)

史実を歪めているのは、私に対する根拠のない批判を繰り返すことに終始し、ご自身の主張を裏付ける史料を提示しないあなたです。
補足について。劉暁波においては保護の意味を曲解し、自分の主張を「管理権」によって認めてもらったと意味不明なことを言っているのに、自分がブロックされたら実行した管理者を批判するんですね。言っておきますが、劉暁波をあなたの望む版で保護した方(何度も述べたように、保護は一時的な措置であって管理者は當事者のどちらの肩も持っていませんが)とあなたをブロックした方は同じアルトクールさんです。この事実を受け止めなさい。
また、デマ流しているのはあなたです。ブロックされた方に問題が全くない訳がないでしょう。これ以上妄想に基づくWikipediaへの批判を続けるのはやめなさい。最後に、「連中らはユーザー名の後ろに隠して僅かな奨勵ももらえるかもしれない。こんな連中なら金でしか動かないでしょう。」という発言についてお伺いします。このような挑戦的な言葉をお使いになるからには、相応の理由があるのでしょうが、返答次第によってはグローバルロックを依頼する事態にも発展するでしょう。こういう発言をしているから暴言だの個人攻撃だのと言われるのです。--変な人ではない會話) 2017年8月16日 (水) 05:26 (UTC)

変な人ではない: 爭いとなった箇所の內容は元の編集者によってブロック中に編集されたことを提示したいですが、これからの編集経緯をしばらく見守ってください。なお、粗末なものですが、本ページの一番下に記しておる言語の使い分けもご覧になれば幸いです。

ちなみに、編集トラブルを中國語版でも議論しているが、ご発言は全文で提示してあげたから、ご発言がこちらによって歪曲されるのが難しいでしょう。また心配すれば、ブロック延長依頼者のなかに、中國語版wikiでも活躍している者は複數いますが、そこに移して議論すればいいでしょう。廢科舉會話) 2017年8月16日 (水) 06:43 (UTC)

爭いとなった箇所というのが幾つかあるため、どれを指しているのか明瞭ではありませんが、劉暁波を指しているのであれば 花蝶風月雪月花警部氏の編集はあなたのブロック前ですし、南京事件 (1937年)を指しているのであれば、あなたのブロック中に行われた差し戻しは大和屋敷氏のもののみです。しかし、大和屋敷氏はこれまであなたと編集內容で対立しているようには見えません。以上の狀態であるため、あなたのご発言の意図が摑めません。
なお、全文を提示しようが何だろうが、中國語版で日本語版の內容に関する議論をすることは全くの目的外利用です。何度言っても理解されないのですね。それにあなたは原文だけでなく、他にも色々と向こうで仰っていますから、私の意図が歪曲されている懸念は拭えていません。--変な人ではない會話) 2017年8月16日 (水) 07:28 (UTC)

変な人ではない: 8日に南京事件#南京事件の発生原因での通州事件に関連する箇所の編集歴を調べてください。元の編集者は2017年8月12日 (土) 15:11‎ Japanese sincerity (會話 | 投稿記録)‎ 編集を行いましたが、先ほどはこちらはあらたな編集を加えました。廢科舉會話) 2017年8月16日 (水) 09:06 (UTC)

補足: 編輯

ブローク決定者の[アルトクール]の管理権を制限されるべきであると主張します。廢科舉(會話) 2017年8月10日 (木) 10:59 (UTC) *ブロック依頼者、決定者と延長依頼者らは事実を把握しようとする意識またはその力も著しくかくので、全員に管理権限及びブロック依頼と延長依頼権限を永久に預けないように強く主張します。その上、延長依頼ページで明らかにデマを撒いていた森藍亭を強く非難します。再び、日本語ウイキペディアの信憑性がこれ以上傷つかれないように、速やかなブロック解除を求めます。廢科舉(會話) 2017年8月13日 (日) 04:16 (UTC) 公然かつ淡々とデマを流しながら、無実な人を裁くための権限を手にして、清き一票を投じるぞ~といわんばかりの一握りの連中が騒々しい道化芝居を世界の前に呈していることは、多分、日本語ウイキペディアの歴史上ではごく稀に見られる珍景でしょう。廢科舉(會話) 2017年8月13日 (日) 18:49 (UTC)

日本語ウイキペディアは赤裸々に私物化されたことに憤りを禁じ得ない。まじめな顔で日本語を弄りじながら、日本人の民度及び日本という國の品位を公然に踏みにじり、無実な人を利用目的わい曲まで中傷することは信じられへんほどの荒唐無稽である。しかし、連中らはユーザー名の後ろに隠して僅かな奨勵ももらえるかもしれない。こんな連中なら金でしか動かないでしょう。廢科舉(會話) 2017年8月15日 (火) 00:07 (UTC)

中國(軍、軍隊、部隊、軍人)と中國人(部隊、軍隊、軍人)の使い分けについて[ソースを編集] 編輯

まず、念頭に置くべきなのは中國と中國人は別々のカテゴリーであることでしょう。 前者は國家という排他的な立場を獨占するのであるから、それに屬される軍(軍隊、部隊)にも國軍という唯一無二な立場を附與され、中國軍人は中國の國軍の構成員のみをさすのである。 後者の中國人とは國籍だけによって形成されるカテゴリーである。 中國人(部隊、軍隊、軍人)とは組織の構成員は中國人に限ることを意味するだけである。中國(軍、軍隊、部隊、軍人)を判明する際に第一次的要因とされる國家との関係は國籍だけによって解明しきれないのでしょう。従って。中國人(部隊、軍隊、軍人)と中國という國家との政治的関係を究明するための手がかりを盡くすためには國籍の他にも尋ねざるを得ないのでしょう。よって、中國人(部隊、軍隊、軍人)というような表現はおのずから曖昧さをもつものであり、孤立的に書き込んだら多義性の攪亂を免れないのでしょう。無論、中國(軍、軍隊、部隊、軍人)と中國人(部隊、軍隊、軍人)を混同しょうとする傾向は論外であるといえよう。廢科舉(會話) 2017年8月13日 (日) 06:29 (UTC)

== 投稿ブロックのお知らせ 編輯

30px|あなたは無期限ブロックされました。 あなたは投稿ブロック依頼に基づいて無期限ブロックされました。ウィキペディアの編集を行うことはできません。 ブロックが自動的に解除されることはありませんのでご留意ください。今後の対話ならびに異議申し立て、解除依頼はあなたの會話ページで受け付けます(投稿ブロック解除依頼作成の手引き投稿ブロックへの異議申し立て參照)。 會話ページも編集できないブロックの場合は、IRC#wikipedia-ja-unblock、もしくはメーリングリストで、會話ページの編集許可を求めてください(ヘルプ)。--Muyo會話) 2017年8月18日 (金) 15:17 (UTC)

日本の歴史感覚及び日本における表現の自由の限度を世界に伝えてくれた事案との不如意な出逢いだが……|廢科舉會話) 2017年8月18日 (金) 19:02 (UTC) 編輯

南京事件ノートページ 編輯

Wikipedia:中立的な観點をもって、デビッド・M・ケネディさんのエッセーをソースにした編集內容の検証[ソースを編集] 編輯

既存編集內容: この事件については、事件の規模、虐殺の存否、戦時國際法違反か、犠牲者數などさまざまな論爭が存在している(南京事件論爭)。故に事件の真相はいまだ不明である[1][2][3]。 利用者‐會話:廢科舉による內容拡充の編集: 行為者の日本に限り南京大虐殺の存否をめぐって論爭が後を絶たないが(南京事件論爭參照)、諸外國では南京大虐殺事件を史実として共有している。例えば、中國系アメリカ人作家アイリス・チャンの著作ザ・レイプ・オブ・南京についてのエッセーでは、ピューリッツァー賞受賞者の米國人歴史學者デビッド・M・ケネディは、ナチスドイツが行ったホロコースト事件の原因に関する分析に見られるような國策、文化及び國民性との関連性までの指摘が、アイリス・チャンの研究には足りないのではないかと主張した一方、西洋諸國では南京大虐殺事件自體の存在を事実として當時から一貫して共有してきたと明示している[4]。 利用者‐會話:廢科舉による編集內容を支えると思われる原文の箇所內容の一部: ①デビッド・M・ケネディ氏の『ザ・レイプ・オブ・南京』に対する指摘: BUT if this improbable tale reminds us of the enigmas of good and evil and the infinite mysteries of the human personality, Chang does not bring an analogous sense of complexity to her effort to explain why the Rape of Nanking happened at all. How did military discipline first degenerate into disorder and then slide into such stupefying depravity? Were Japanese actions the result of deliberate high-level policy decisions to terrorize the Chinese? Did the Imperial Japanese Army's atrocities flow from some moral defect in the Japanese national character? From willful military indoctrination that cultivated race hatred toward the Chinese? From the bent minds of crazed local commanders? From wholesale insubordination by an ill-educated and hard-used soldiery? Or did the whole history and atmosphere of the Yangtze—especially the bloody 1937 campaign from Shanghai up the valley, which culminated in the nightmarish condition of Nanjing on December 13—somehow unbridle the demons in men's souls? ……this book does a much better job of describing the horrors of Nanjing than of explaining them. Part of that deficiency is owing to Chang's sources. With but a handful of exceptions, Chang tells her tale from the point of view of the Chinese victims in Nanjing or the Caucasian witnesses in the Safety Zone. Her evidence offers little basis for any insight into the mentality of the perpetrators. She offers little that is comparable to the carefully nuanced analysis of the motives behind Nazi brutality that one finds in works…… 以上のデビッド・M・ケネディ氏の指摘には行為主體は日本だけしか提示していないから、南京大虐殺の具體的な原因(日本の國策か、日本の國民性か、日本軍の軍國的教育に由來する中國に対す増悪感か、日本軍人のむき出しにした男の悪魔意識か)は解明していないとしても、原因のすべては「From Japanese」こと自體は明示してくれたのでしょう。 ②デビッド・M・ケネディ氏自身が南京大虐殺の存在を認めている根拠: ……the city's Chinese inhabitants were so traumatized that many of them welcomed the Japanese army as a disciplined military force that might at least impose a semblance of order on the chaotic hell of bleeding, burning Nanjing. That expectation the Japanese abruptly and cruelly demolished. ……The procedure was certainly allowable under recognized rules of war, but Matsui's troops carried it out with wanton ferocity. They rounded up all young men of military age and proceeded to kill them in wholesale machine-gunnings and serial decapitations, sometimes in full view of horrified onlookers. Worse soon followed. Roaming bands of Japanese troops began murdering civilians at random, indiscriminately assailing the young and the old, men, women, children, and unborn fetuses alike, with bludgeon, bayonet, rifle, torch, and sword. Matsui's soldiers used both living and dead Chinese for bayonet practice. They mutilated, tortured, and maimed countless victims. According to Chang's account, they hanged people by their tongues and marinated them in acid, dismembered them, grenaded them, impaled them and burned them and flayed them and froze them and buried them alive. They also raped countless women, bestowing upon this unholy episode the name by which it has forever after been known and which furnishes Chang's title: the Rape of Nanking. But if a penchant for the sensational, along with a certain credulousness, occasionally colors Chang's recounting of some of those incidents, there can be no doubt that the evidence amounts to a crushing indictment of the Japanese army's behavior. The Rape of Nanking stands out in the long and sorry annals of warfare and its crimes as an exceptionally heinous monstrosity. Even the Japanese Foreign Minister, Hirota Koki, reported after an inspection trip in January of 1938 that the "Japanese Army behaved . . . in [a] fashion reminiscent [of] Attila [and] his Huns. [Not] less than three hundred thousand Chinese civilians slaughtered, many cases [in] cold blood." In the final accounting, this book does a much better job of describing the horrors of Nanjing than of explaining them. ……"Why the devil did you stay?" a puzzled Japanese officer asked him in the midst of the pandemonium engulfing Nanjing.…… BUT if this improbable tale reminds us of the enigmas of good and evil and the infinite mysteries of the human personality…… The Western world in fact neither then nor later ignored the Rape of Nanking. 訂正版 廢科舉(會話) 2017年8月16日 (水) 11:18 (UTC)

提案[ソースを編集] 編輯

今回のようなバトルはどう見ても不毛です。よって、廢科舉が書いた內容で私が修正したもので、廢科舉本人が納得した內容は生かしてもいいと思います。恐縮ですが大和屋敷も納得してほしいです。日本では南京事件はその存否の論爭がありますが、その規模や事実認識は別として多くの國では南京虐殺という言葉はとりあえず広まっていますので、それも事実としては書いてもいいと思います。つまり、解釈に多くの見解があるのも事実です。確かに歴史上に起こったことは1回のみで、それが真実です。しかし、事実認定や事実そのものさえも、その解釈(犯罪に當たるかなど)には幅があります。私は、今まで資料で可能な限り事実を追ってきて、同時に見解の幅がある場合は。その根拠の精度や事実性の濃淡を示しつつ、可能な限り、様々な意見の違いの存在は記載すべきとしました。少し話題はそれますが、英語版の「南京事件」関連で、昭和天皇が昭和12年8月に戦時國際法違反の捕虜殺害を個人的に通知したと書いてありましたので、おかしい?と思い、調べたら、どうも陸軍次官の8月5日のハーグ陸戦條約無視の通知のこと(秦氏の本にもあり。私も南京事件と論爭で何度か記載)であると突き止め、「陸軍省」が、とその主語を修正しました。ついでに最近は仏語版も同様になおしています。昭和天皇の濡れ衣をはらしたい、という個人的意思もありましたが、何よりも事実に固執した結果の例です。この場合は事実にこだわりました。しかし、そもそも事件全體のとらえ方は幅があるのは妨げられません。如何でしょうか。何よりバトルは不毛なので、意見あれば、こちらに書いてほしいです。--Japanese sincerity(會話) 2017年8月18日 (金) 15:57 (UTC) ^ 長谷川啓之「南京」「現代アジア事典」文眞堂, 2009 ^ David・M・Kennedy,The Horror,The Atlantic Monthly 281 (4): pages 110–116,April 1998.塩谷紘訳 デビッド・M・ケネディ「南京虐殺はホロコーストではない」『諸君!』平成10(1998)年8月號 ^ Kennedy(1998)は「南京虐殺事件の背景について萬人が納得するような説明はいまだなされていない」とする。 ^ 「David・M・Kennedy, The Horror :Should the Japanese atrocities in Nanking be equated with the Nazi Holocaust?(ザ ・ホラー:南京で行った日本人の殘虐行為はナチスのホロコーストと同一視されるべきか?)」. The Atlantic.com. 20170808閲覧。 主張と事実を混同している典型的な編集です。また「同盟軍」という獨自の定義を史実の裏付けなく導入してはいけません。いずれにせよずさんな加筆でありWikipediaの品質水準に満たないものとして差し戻しました。--大和屋敷(會話) 2017年8月19日 (土) 03:28 (UTC) やや不満はあるが、了解します。他の方も意見あれば。--Japanese sincerity(會話) 2017年8月19日 (土) 07:55 (UTC) カテゴリ: 論爭のある話題

劉暁波ノートページ 編輯

身柄拘束中のまま死去したノーベル平和賞受賞者[ソースを編集] 編輯

2017年7月31日 (月) 05:53 (UTC)(差分)の編集によれば、「ノーベル賞歴史上では、受賞から辭世までずっと解放されなかった受賞者は劉暁波だけ」とのことだが、報道(朝日新聞デジタル、BBC)によれば、1935年に受賞したカール・フォン・オシエツキーも拘束中に受賞し、拘束中のまま死去しており、矛盾が見られる。出典の提示が無ければ當該記述の除去を行う予定。--花蝶風月雪月花警部(會話) 2017年8月5日 (土) 17:57 (UTC) コトバンクでは、(ノーベル賞受賞後)「1936年拘禁されたまま病院に移されたが,2年後に結核で死亡した」(ブリタニカ國際大百科事典 小項目事典)、「獄死」(デジタル大辭泉、百科事典マイペディア)とある。--花蝶風月雪月花警部(會話) 2017年8月6日 (日) 09:39 (UTC)  矛盾全然ありませんと思います。先ずは『拘束中に受賞し、拘束中のまま死去しており』の問題。ノーベル平和賞の実體証文が貰えできないですけれど、その名譽は確かに貰えました。[2] それは真実であり、事実でもあり。--DA*ZE(會話) 2017年8月10日 (木) 14:16 (UTC)

諸閲覧者へ[ソースを編集] 編輯

①リンク先の內容を確認しないまま編集するのは反則。(カール・フォン・オシエツキー氏は沒の二年前に釈放され、平和賞も受賞したことは當該日本語リンクの多くない記述にしっかり記載されている。読めずなら日本人としてとっても異常) ②內部リンクより外部リンクを優先するのも反則。(朝日新聞デジタル&BBCにリンクすべきではない) ③出典に足りる新聞記事は必ず出典によって裏付けられる。(朝日kotobankの記載も金科玉條ではない、出典を求めるのも當然。しかし、「以後 20年にわたって中國當局による監視が行なわれ,活動も制限された」との朝日kotobankの記載內容に當該編集者は一方的に出典を求めていたが、重大な事実誤認となる學生は武器を持っていた記述を平然と受け入れた。) これから、當該編集者の編集內容を無視することを決め、ペキンの一黨獨裁を弁護する聲は日本にどれだけ強いのを記述するほうがwikiにとって意義もっと大きい。 廢科舉より ——以上の署名の無いコメントは、廢科舉(ノート・履歴)さんが 2017年8月6日 (日) 08:50‎ (UTC) に投稿したものです。 補足: カール・フォン・オシエツキー氏の平和賞受賞権及び賞金に対する所有権はナチス・ドイツによって(訂正)公に剝奪されなかったことや病院から外出したことがあったことを裏付けるウィキペディア記載內容 入院中のカール・フォン・オシエツキー氏の市民権の一部はナチス・ドイツによって剝奪されなかったことを裏付けるwikipedia Carl von Ossietzky(1935 Nobel Peace Prize節)の記載內容(反ナチス政権的な市民的不服従行為は懲罰された記載はない): 授賞を拒否させようとしたヘルマン・ゲーリングを拒否し、病院から平和賞を受ける意志を明示した覚え書きを発表した。 (Ossietzky's international rise to fame began in 1936 when, already suffering from serious tuberculosis, he was awarded the 1935 Nobel Peace Prize. The government had been unable to prevent this, but refused to release him to travel to Oslo to receive the prize. In an act of civil disobedience, after Hermann Göring prompted him to decline the prize, Ossietzky issued a note from the hospital saying that he disagreed with the authorities who had stated that by accepting the prize he would cast himself outside the deutsche Volksgemeinschaft (community of German people): After much consideration, I have made the decision to accept the Nobel Peace Prize which has fallen to me. I cannot share the view put forward to me by the representatives of the Secret State Police that in doing so I exclude myself from German society. The Nobel Peace Prize is not a sign of an internal political struggle, but of understanding between peoples. As a recipient of the prize, I will do my best to encourage this understanding and as a German I will always bear in mind Germany's justifiable interests in Europe.) 1936年にカール・フォン・オシエツキー氏が入院した時點で刑もう終え、法的に釈放されたというカール・フォン・オシエツキーの記述を裏付ける出典を付けているwiki外部の記載內容: http://windowstoworldhistory.weebly.com/carl-von-ossietzky-wins-the-nobel-prize-while-in-a-nazi-prison-camp.html 「The German Propaganda Ministry declared that Carl could go to Norway to accept the prize, but secret police documents later indicated that the government refused Carl a passport.」 廢科舉より ——以上の署名の無いコメントは、廢科舉(ノート・履歴)さんが 2017年8月7日 (月) 09:00‎ (UTC) に投稿したものです。

劉暁波 りゅうぎょうはLiu Xiaobo 編輯

ブリタニカ國際大百科事典 小項目事典の解説

劉暁波 りゅうぎょうは Liu Xiaobo


[生]1955.12.28. 吉林,長春 中國の人権活動家,文筆家,教師。10代の頃數年間,文化大革命期の下放により家族とともに辺境の農村で過ごす。1982年に吉林大學文學部を卒業後,北京師範大學で文學修士號(1984)と博士號(1987)を取得。1988~89年に歐米の大學に客員研究員として迎えられる。1989年に北京で學生を中心とした民主化運動が起こると,ニューヨークから急きょ帰國しハンガーストライキに參加。中國人民解放軍がデモ隊を武力弾圧した天安門事件のあと,殘った學生が安全に撤退できるよう軍と交渉し暴力の拡大を防いだ。その活動は比較的穏健だったが,以後 20年にわたって中國當局による監視が行なわれ,活動も制限された。2008年12月,世界人権宣言の 60周年に合わせて中國の民主主義體制移行を訴える「08憲章」を起草,発表したことにより,2009年に國家政権転覆扇動罪で懲役 11年の判決を受けた。2010年,中國での基本的人権の確立のため長年にわたり非暴力の闘いを続けてきたという理由でノーベル平和賞が授與されたが,服役中のため授賞式には出席できなかった。代表作に現代の儒教思想家を批判した第一作『選擇の批判──李沢厚との対話』(1988)があり,雑誌に文芸批評や詩も発表。1990年以降,作品のほとんどは國外で出版されている。 出典|ブリタニカ國際大百科事典 小項目事典ブリタニカ國際大百科事典 小項目事典について | 情報 知恵蔵の解説

劉暁波


中國の作家・詩人で人権活動家。2010年10月、民主化と基本的人権を求める長年の非暴力活動が高く評価され、ノーベル平和賞を受賞した。中國民主化闘爭の象徴的存在だが、現在、遼寧省錦州市の刑務所に服役中。中國人としては、全部門を通して初のノーベル賞受賞者にもかかわらず、中國政府は「國の法律を犯した罪人への授與は平和賞を汚すもの」として、ノルウェーの同賞委員會を激しく非難し、當局の管理下にある國內メディアも、受賞決定のニュースをほとんど報じなかった。 劉氏は1955年吉林省長春市生まれ。吉林大學文學部卒業後、北京師範大學で文學博士號を取得した。在學中から多くの文芸時評や反體制論文を発表し、その鋭利な洞察力と舌鋒(ぜっぽう)鋭い筆致は、國內外の注目を浴びた。北京師範大學で講師を務めながら、オスロ大學(ノルウェー)とハワイ大學の教壇にも立っている。 コロンビア大學客員研究員として在米中の89年、中國での民主化の気運の高まりを知ると、ニューヨークから帰國し、民主化運動の學生たちに合流した。同年6月4日に起こった天安門事件では、學生と一緒にハンスト運動を決行。人民解放軍の広場への突入を知ると、學生に武器を放棄させる一方、周舵・侯徳健・高新とともに軍との交渉にあたり、「四君子」(4人の指導的知識人)として注目される。しかし事件後、反亂の扇動者として拘束され、91年まで「反革命罪」で投獄された。 事件後、多くの活動家が亡命したにもかかわらず、國內にとどまって體制批判を続け、二度(95年、96~99年)にわたって投獄・強制労働の刑を受けた。その後も、當局の様々な圧力に屈することなく、言論による民主化運動を続けながら、天安門事件の犠牲者遺族の支援活動なども行っている。2008年12月には、憲法改正、三権分立、言論・集會の自由など19項目を掲げる「08憲章」を起草し、作家・學者・弁護士など著名知識人303人との連名でインターネットに発表。その後、海外を含め1萬人の賛同署名を集めるが、憲章発表の前日に拘束され、10年2月に「國家政権転覆扇動罪」の罪で、懲役11年の実刑判決を受けた。平和賞受賞を機に、國際社會から釈放を求める聲が高まったが、2010年11月現在もまだ投獄中。 (大迫秀樹  フリー編集者 / 2010年) 出典|(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について | 情報 デジタル大辭泉の解説

りゅう‐ぎょうは〔リウゲウハ〕【劉暁波】


⇒リウシャオボー(劉暁波) リウ‐シャオボー【劉暁波】

[1955~ ]中國の作家・詩人・人権活動家。吉林省長春生まれ。コロンビア大學の客員研究員として米國滯在中に天安門事件が起こり、帰國して參加。反革命罪で投獄された。1991年に釈放された後も民主化を訴え続け、共産黨による獨裁を批判し三権分立を求める「08憲章」を起草し、國家政権転覆扇動罪で投獄。服役中の2010年にノーベル平和賞を受賞した。 出典|小學館デジタル大辭泉について | 情報 凡例 百科事典マイペディアの解説

劉暁波【りゅうぎょうは】

中國の批評家,民主活動家。2010年,ノーベル平和賞受賞。中國在住の人としては最初のノーベル賞受賞者だが,中國政府によって投獄服役中で授賞式に出席できなかった。 出典|株式會社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて | 情報 知恵蔵miniの解説

劉暁波


中國の作家、人権活動家。1955年12月28日、同國吉林省生まれ。北京師範大學で文學修士號・博士號を取得し、講師も務める。89年4月、北京で學生を中心とした民主化運動が始まると、研究のため滯在していた米國から帰國して參加。これを軍が武力弾圧した同年6月の天安門事件では、軍と學生の雙方に衝突を迴避するよう説得し、犠牲の拡大を防いだ。事件後は反革命宣伝扇動罪で投獄されたが、91年の釈放後も國內にとどまり、2008年、中國共産黨の一黨獨裁の放棄、言論の自由、司法の獨立などを訴える「08憲章」の起草で中心的役割を果たした。その後、中國當局に拘束され、10年に國家政権転覆扇動罪で懲役11年の実刑判決が確定した。服役中の10年、ノーベル平和賞を受賞。17年5月に末期の肝臓がんであることが判明し、海外での治療を希望するも中國當局の許可が得られず、同年7月、刑務所外の病院で死去した。享年61。 (2017-7-19) 出典|朝日新聞出版知恵蔵miniについて | 情報 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

劉暁波 りゅうぎょうは / リウシャオボー (1955― )

中國の反體制活動家、作家。吉林(きつりん)省出身。文化大革命中に農村部に送られ數年間、農作業に従事した経験をもつ。その後吉林大學で中國文學を學び、北京(ペキン)師範大學で修士、博士號を取得したあと、大學講師となった。在學中に文學評論家の大御所である李沢厚(りたくこう)(1930― )を激しく批判し「文壇のダークホース」と稱され注目された。ノルウェーのオスロ大學やアメリカのコロンビア大學で客員研究員をも務めた。1989年春、北京で民主化を求めるデモが発生すると、學生を指導する民主化運動のリーダーとなった。人民解放軍による武力行使が迫るなか、天安門広場でハンガー・ストライキを敢行、最後まで広場に殘り學生に撤収を説得し、多くの流血を迴避した。事件後、反革命罪で約2年間投獄されたが、釈放後も人権や民主化を求める文章を書き続け、當局の厳しい監視下に置かれた。2008年末に共産黨の一黨獨裁を批判する「零八憲章」のおもな起草者となり、ふたたび逮捕された。國家政権転覆扇動罪に問われて懲役11年の判決が下された。現在は遼寧(りょうねい)省錦州(きんしゅう)市の刑務所で服役中。「中國における基本的人権のために長年、非暴力的な闘いをしてきた」ことなどを理由に、2010年ノーベル平和賞を受賞した。[矢板明夫] [參照項目] | 中國人民解放軍 | 文化大革命 出典|小學館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例 劉暁波の関連キーワード |リュウシャオボー |李 方平 |余 傑 |余傑氏 |莫言 劉暁波の関連情報 「中國當局者に監禁」は狂言? 香港民主黨員を逮捕(2017-8-15) デジタル版から 朝日新聞DIGITAL(2017-8-14) 中國の「當局者」、香港で男性暴行 劉氏妻との関係追及(2017-8-12) 劉氏妻との関係聞かれ「ホチキス針で刺された」 香港(2017-8-11) (ザ・コラム)劉暁波さんの強さ 社會は変えられる、信じて 吉岡桂子(2017-8-10) 劉暁波さんをしのぶ 世の中を変えられると信じて(2017-8-9)

利用者‐會話:廢科舉 編輯

ご投稿は意味のある文章でお願いします。 こんにちは。ご投稿は意味のある文章でお願いします。あなたが劉暁波でなさったような投稿は荒らし投稿とみなされます。もしテスト投稿がしたければ、テスト専用ページWikipedia:サンドボックスの使用をおすすめします。このほか便利な機能をいろいろ紹介するガイドブックもご參照ください。あなたのウィキペディア・ライフが充実したものでありますように。--花蝶風月雪月花警部(會話) 2017年7月28日 (金) 09:53 (UTC) 荒らし行為はやめてください。 荒らし行為はやめてください。あなたがこれ以上、劉暁波でなさったような投稿を続けると、ウィキペディアの編集ができなくなる投稿ブロックの対象となります。ご注意ください。--花蝶風月雪月花警部(會話) 2017年8月6日 (日) 06:12 (UTC) 目次 [非表示] 1 松尾氏の私見は不要 2 要約欄に関して 3 ブロックのお知らせ 4 対話は中斷していない限り、ブロック依頼及びその決定はすべきではない、対話中の無期限ブロック延長依頼は表現の自由を害する行為として非難されるべきである 4.1 ブロックに対する異議 5 日本語ウイキペディアの信憑性はこれ以上に傷つかれないように、速やかなブローク解除が求められます。 6 中國(軍、軍隊、部隊、軍人)と中國人(部隊、軍隊、軍人)の使い分けについて 7 投稿ブロックのお知らせ 8 日本の歴史感覚及び日本における表現の自由の限度を世界に伝えてくれた事案との不如意な出逢いだが……|廢科舉(會話) 2017年8月18日 (金) 19:02 (UTC) 松尾氏の私見は不要[ソースを編集] 南京事件 (1937年)で、松尾氏の私見は不要です。SPAM行為となるので2度としないで下さい。--JapaneseA(會話) 2017年8月8日 (火) 05:29 (UTC) 異議: 舊日本陸軍士官出身者による親睦団體「偕行社の『南京戦史』は松尾 一郎の私見ではない。——以上の署名の無いコメントは、廢科舉(ノート・履歴)さんが 2017年8月8日 (火) 08:00 (UTC) に投稿したものです(JapaneseA(會話)による付記)。 まず、発言の後には署名して下さい(Wikipedia:署名にやり方が書いてあります)。「南京戦史」がダメなのではなく、それを掲載しているサイトの事を言っています。例えば私の個人サイトに信頼できる情報源を載せたとしても、それにリンクする事は不適切です。こういう場合は、URLは不要で、書籍情報を提示すればそれで良いのです。後ほど修正しておきますので御覧下さい--JapaneseA(會話) 2017年8月8日 (火) 08:22 (UTC) 修正しました。もし御存知であれば、號とページ番號を記載しておいて下さい。なお、言うまでもありませんが南京事件という大きなテーマの外部リンクに、松尾氏個人サイトの掲載は不適切です。--JapaneseA(會話) 2017年8月8日 (火) 08:29 (UTC) 御編集が納得できます。一読の価値がありますが、情報源としての厳密さが多少は欠く。號とページ番號の把握に努力します。廢科舉(會話) 2017年8月8日 (火) 09:00 (UTC) 御理解感謝致します。また、「南京戦史」を提示したかったという意図を見抜けず御詫び申し上げます。--JapaneseA(會話) 2017年8月8日 (火) 09:04 (UTC) ご丁寧に、どうも宜しくお願い致します。廢科舉(會話) 要約欄に関して[ソースを編集] こんにちは、南京事件 (1937年)におけるあなたの編集ですが、「通州事件は日本軍影響のもとに置かれた親日武裝の叛亂、中國軍の組織的な武力行使ではない」と要約欄に記入されたことの真意をお伺いします。はっきり申し上げますが、あなたの獨自研究以外の何かと言えますか。Wikipediaを個人の主張の場とでも勘違いされてはいないでしょうか?もし今後もこういった認識を持ち続けられるのであれば、不適切であるとお伝えします。--変な人ではない(會話) 2017年8月8日 (火) 09:23 (UTC) こんにちは、獨自研究と考えられるようなご理由を伝えてくれませんか?——以上の署名の無いコメントは、廢科舉(ノート・履歴)さんが 2017年8月8日 (火) 10:29 (UTC) に投稿したものです(変な人ではない(會話)による付記)。 あなたのご主張は通説とかけ離れており、こちらで調べても全く裏付ける史料が見つからなかったためです。むしろあなたが「通州事件は日本軍影響のもとに置かれた親日武裝の叛亂」などと主張されている根拠をお示し下さい。--変な人ではない(會話) 2017年8月8日 (火) 10:41 (UTC) あなたはこちらの主張を裏付ける史料が見つからなかったとお伝えてくれても驚く必要はありませんが、こちらの主張を覆すような史料も見つかりませんでしたか?もし見つかったら、お伝えてくれませんか? あなたはここでの対話をつづけながら、ブロックの延長依頼を行ったことは適切さを欠くと考えておりますが、ブローク依頼ページに異議を附す予定です。ご覧になれますように。廢科舉(會話) 2017年8月9日 (水) 04:12 (UTC) あなたの主張を覆す史料をこちらが提示する必要はありません。初めからないものを出せというのは悪魔の証明であり、不可能なことです。また、ここでの発言や他の場でのあなたの行動を參照すると、あなたはご自分の意見を曲げないため、対話が成立しません。人のことを批判する前に何故1週間のブロックとなったのか考えて下さい。--変な人ではない(會話) 2017年8月9日 (水) 07:14 (UTC) あなたは通州事件が「中國軍」の所業だったというあなたご自身の主張を裏付ける史料を見つけることは悪魔しかできないこと、及びこれからの対話を拒否することをお伝えてくれたと受け止めても差し支えはありませんか?廢科舉(會話) 2017年8月9日 (水) 07:44 (UTC) 本來ならこのようなご発言に返答する義理もないのですが、中國語版で私の発言を引用して勝手な主張をされているようなのでお答えします。私は「あなたの主張を裏付ける史料が初めからない」と言っているのであり、反証する必要が生じていないのです。その部分を曲解されては困ります。また、あなたはご自身の意見を聲高に述べるばかりであるため、対話が成立していないという旨述べたのですが、対話拒否などと認識するのは誤りです。間違った認識で中國語版においてあれこれと言われても迷惑ですので返信しました。まあ中國語版の記事のノートで日本語版の批判をすること自體筋が通っていないことではあります。--変な人ではない(會話) 2017年8月16日 (水) 05:26 (UTC) ブロックのお知らせ[ソースを編集] あなたはブロックされました。 あなたはブロックされました。しばらくウィキペディアの編集を行うことはできません。ブロックは時間がたつと自動的に解除されます。解除後、基本的な決まりを守って參加するなら、あなたの投稿は歓迎されます。今後の対話ならびに異議申し立て、解除依頼はあなたの會話ページで受け付けます。會話ページも編集できないブロックの場合は、IRCの#wikipedia-ja-unblock、もしくはメーリングリストで、會話ページの編集許可を求めてください。(ヘルプ、投稿ブロックへの異議申し立て・投稿ブロック解除依頼作成の手引き參照) 複數の記事において編集合戦になっているため、あなたの投稿を制限しています。今一度、方針等をご確認くださいますようお願いいたします。いかなる理由があっても編集合戦をしてもよいという理由にはなりません。--アルトクール(會話) 2017年8月8日 (火) 10:50 (UTC) Wikipedia:投稿ブロック依頼/廢科舉 延長を提出しました。--変な人ではない(會話) 2017年8月8日 (火) 12:49 (UTC) 対話は中斷していない限り、ブロック依頼及びその決定はすべきではない、対話中の無期限ブロック延長依頼は表現の自由を害する行為として非難されるべきである[ソースを編集] ブロックに対する異議[ソースを編集] Template:アルトクール 廢科舉(會話) 2017年8月9日 (水) 07:28 (UTC) ①について。私はあなたと対話をしました。その過程はあなたもご提示されているように、この會話ページに殘っています。既にブロックされている方との対話ですから、本來ならば対話を挾まずにいきなりブロックの延長依頼に持っていっても良かったのですが、あなたにもご主張があるだろうと考えて話し合いを試みたのです。しかしそれは無駄に終わったようで殘念です。ある事柄についてブロックを受けているのであれば、その一點においてはあなたのした行いは誤りだったということです。 ②について。ノート:劉暁波で論爭相手の方を批判した上で、対話拒否を宣言するに至った方の発言とは思えませんね。あなたが一方的に解決したと主張されても、現狀では劉暁波の記事は問題のある版のまま保護されてしまっています。そのため、未だに敬稱が付與されたり特定の文言のままだったり…といった問題は記事に殘っています。保護期間が過ぎたら私は差し戻しますが、あなたの仰る「管理権によって最終的に解決済み」というのは全くの方針に対する無理解です。編集合戦が起きれば管理者は版を選ばずに保護します。その保護が行われた版で一時的に固まるだけであり、期間中にどちらの編集が適切か當事者の間で話し合うのです。これはWikipediaのどの言語版であっても同じかと思いますが、あなたは全く方針を理解していないのですね。獨自研究についても私や他の方々から受けた指摘を真摯に受け止めない限り、あなたが気付けないことは分かりました。 ③について。Wikipedia內の記事は出典に成り得ません。外部サイトの出典を取り消してWikipedia內のリンクに変えることが不適切だと認識出來ないのは、あなたが方針を理解していないからです。 ④について。ブロックの延長依頼における私の依頼文を読んでご自身の個人攻撃を認識出來ないのであれば、私から申し上げることはありません。無期限への延長票の數が、あなたに対するコミュニティの不支持を象徴しています。 補足について。私が前の節でした反論を読み直して下さい。私はあなたの主張を裏付ける史料がないと言っているのです。腕ずくで史実を曲げているのはあなたです。実際の會話を歪めて伝えるのはおやめ下さい。--変な人ではない(會話) 2017年8月16日 (水) 05:26 (UTC) × 卻下と言いますか、ブロック解除申請の手続きに則っていないため、申請自體が無効です。--アルトクール(會話) 2017年8月18日 (金) 09:33 (UTC) アルトクール:あなたには管理権行使に相応する程度の能力はないことを再び言わせないでください。廢科舉(會話) 2017年8月18日 (金) 09:46 (UTC) コメント このようなスタイルを破壊する行動をしているのはどういう意図があるんでしょうか。あなたは、日本語版でコミュニティに行動を問題視されています。どこの言語版でもWikipedia:編集合戦や、Wikipedia:論爭の解決のような文書が存在し、Wikipedia:投稿ブロックの方針、24時間で過度の編集合戦をしてはいけない方針・ガイドラインがあります。日本語においてこれらの文書を含めて、方針・ガイドラインを理解できなかったり、日本語でコミュニケーションを取れないのであれば、申し訳ないですが日本語版での活動をやめて、母語の言語版でご活動ください。なお、この本日から再び1週間設定したブロックについては、私から今の段階で解除することはありません。同じ言葉を繰り返しても、解除はいたしません。--アルトクール(會話) 2017年8月18日 (金) 09:52 (UTC) こちらは行った操作は通常の通り、該當箇所をコピーした上で編集ページに貼り付けるだけなので、あなたの方の編集システムに異変が生じたではないか?なお、いわゆる編集合戦とは一方的な行動で起こられない以上、原因を精査しない限り、結論を出すのは理不盡ではないか?廢科舉(會話) 2017年8月18日 (金) 10:05 (UTC) 廢科舉さん、落ち着いてください。アルトクールさんの言う通り、方針とガイドラインを理解できないなら編集をおやめてください。冷靜一點好不好?--Lanwi1(會話) 2017年8月18日 (金) 10:28 (UTC) 日本語ウイキペディアの信憑性はこれ以上に傷つかれないように、速やかなブローク解除が求められます。[ソースを編集] ただし、ブロック依頼者及びブロック延長依頼者らに対するブロック依頼をするつもりはありません。史実が歪まれたことも史実であり、見直された経緯のなかで、それなりに記録される価値があるからです。廢科舉(會話) 2017年8月10日 (木) 03:32 (UTC) 補足: ブローク決定者の[アルトクール]の管理権を制限されるべきであると主張します。廢科舉(會話) 2017年8月10日 (木) 10:59 (UTC) *ブロック依頼者、決定者と延長依頼者らは事実を把握しようとする意識またはその力も著しくかくので、全員に管理権限及びブロック依頼と延長依頼権限を永久に預けないように強く主張します。その上、延長依頼ページで明らかにデマを撒いていた森藍亭を強く非難します。再び、日本語ウイキペディアの信憑性がこれ以上傷つかれないように、速やかなブロック解除を求めます。廢科舉(會話) 2017年8月13日 (日) 04:16 (UTC) 公然かつ淡々とデマを流しながら、無実な人を裁くための権限を手にして、清き一票を投じるぞ~といわんばかりの一握りの連中が騒々しい道化芝居を世界の前に呈していることは、多分、日本語ウイキペディアの歴史上ではごく稀に見られる珍景でしょう。廢科舉(會話) 2017年8月13日 (日) 18:49 (UTC) 日本語ウイキペディアは赤裸々に私物化されたことに憤りを禁じ得ない。まじめな顔で日本語を弄りじながら、日本人の民度及び日本という國の品位を公然に踏みにじり、無実な人を利用目的わい曲まで中傷することは信じられへんほどの荒唐無稽である。しかし、連中らはユーザー名の後ろに隠して僅かな奨勵ももらえるかもしれない。こんな連中なら金でしか動かないでしょう。廢科舉(會話) 2017年8月15日 (火) 00:07 (UTC) 史実を歪めているのは、私に対する根拠のない批判を繰り返すことに終始し、ご自身の主張を裏付ける史料を提示しないあなたです。 補足について。劉暁波においては保護の意味を曲解し、自分の主張を「管理権」によって認めてもらったと意味不明なことを言っているのに、自分がブロックされたら実行した管理者を批判するんですね。言っておきますが、劉暁波をあなたの望む版で保護した方(何度も述べたように、保護は一時的な措置であって管理者は當事者のどちらの肩も持っていませんが)とあなたをブロックした方は同じアルトクールさんです。この事実を受け止めなさい。 また、デマ流しているのはあなたです。ブロックされた方に問題が全くない訳がないでしょう。これ以上妄想に基づくWikipediaへの批判を続けるのはやめなさい。最後に、「連中らはユーザー名の後ろに隠して僅かな奨勵ももらえるかもしれない。こんな連中なら金でしか動かないでしょう。」という発言についてお伺いします。このような挑戦的な言葉をお使いになるからには、相応の理由があるのでしょうが、返答次第によってはグローバルロックを依頼する事態にも発展するでしょう。こういう発言をしているから暴言だの個人攻撃だのと言われるのです。--変な人ではない(會話) 2017年8月16日 (水) 05:26 (UTC) 変な人ではない: 爭いとなった箇所の內容は元の編集者によってブロック中に編集されたことを提示したいですが、これからの編集経緯をしばらく見守ってください。なお、粗末なものですが、本ページの一番下に記しておる言語の使い分けもご覧になれば幸いです。 ちなみに、編集トラブルを中國語版でも議論しているが、ご発言は全文で提示してあげたから、ご発言がこちらによって歪曲されるのが難しいでしょう。また心配すれば、ブロック延長依頼者のなかに、中國語版wikiでも活躍している者は複數いますが、そこに移して議論すればいいでしょう。廢科舉(會話) 2017年8月16日 (水) 06:43 (UTC) 爭いとなった箇所というのが幾つかあるため、どれを指しているのか明瞭ではありませんが、劉暁波を指しているのであれば花蝶風月雪月花警部氏の編集はあなたのブロック前ですし、南京事件 (1937年)を指しているのであれば、あなたのブロック中に行われた差し戻しは大和屋敷氏のもののみです。しかし、大和屋敷氏はこれまであなたと編集內容で対立しているようには見えません。以上の狀態であるため、あなたのご発言の意図が摑めません。 なお、全文を提示しようが何だろうが、中國語版で日本語版の內容に関する議論をすることは全くの目的外利用です。何度言っても理解されないのですね。それにあなたは原文だけでなく、他にも色々と向こうで仰っていますから、私の意図が歪曲されている懸念は拭えていません。--変な人ではない(會話) 2017年8月16日 (水) 07:28 (UTC) 変な人ではない: 8日に南京事件#南京事件の発生原因での通州事件に関連する箇所の編集歴を調べてください。元の編集者は2017年8月12日 (土) 15:11‎ Japanese sincerity (會話 | 投稿記録)‎ 編集を行いましたが、先ほどはこちらはあらたな編集を加えました。廢科舉(會話) 2017年8月16日 (水) 09:06 (UTC) 中國(軍、軍隊、部隊、軍人)と中國人(部隊、軍隊、軍人)の使い分けについて[ソースを編集] まず、念頭に置くべきなのは中國と中國人は別々のカテゴリーであることでしょう。 前者は國家という排他的な立場を獨占するのであるから、それに屬される軍(軍隊、部隊)にも國軍という唯一無二な立場を附與され、中國軍人は中國の國軍の構成員のみをさすのである。 後者の中國人とは國籍だけによって形成されるカテゴリーである。 中國人(部隊、軍隊、軍人)とは組織の構成員は中國人に限ることを意味するだけである。中國(軍、軍隊、部隊、軍人)を判明する際に第一次的要因とされる國家との関係は國籍だけによって解明しきれないのでしょう。従って。中國人(部隊、軍隊、軍人)と中國という國家との政治的関係を究明するための手がかりを國籍の他に尋ねざるを得ないのでしょう。よって、中國人(部隊、軍隊、軍人)というような表現はおのずから曖昧さをもつものであり、孤立的に書き込んだら多義性の攪亂を免れないのでしょう。無論、中國(軍、軍隊、部隊、軍人)と中國人(部隊、軍隊、軍人)を混同しょうとする傾向は論外であるといえよう。廢科舉(會話) 2017年8月13日 (日) 06:29 (UTC) 投稿ブロックのお知らせ[ソースを編集] あなたは無期限ブロックされました。 あなたは投稿ブロック依頼に基づいて無期限ブロックされました。ウィキペディアの編集を行うことはできません。 ブロックが自動的に解除されることはありませんのでご留意ください。今後の対話ならびに異議申し立て、解除依頼はあなたの會話ページで受け付けます(投稿ブロック解除依頼作成の手引き・投稿ブロックへの異議申し立て參照)。 會話ページも編集できないブロックの場合は、IRCの#wikipedia-ja-unblock、もしくはメーリングリストで、會話ページの編集許可を求めてください(ヘルプ)。--Muyo(會話) 2017年8月18日 (金) 15:17 (UTC) 日本の歴史感覚及び日本における表現の自由の限度を世界に伝えてくれた事案との不如意な出逢いだが……|廢科舉(會話) 2017年8月18日 (金) 19:02 (UTC)[ソースを編集

Wikipedia:投稿ブロック依頼/廢科舉 延長 編輯

< Wikipedia:投稿ブロック依頼 利用者:廢科舉(會話 / 投稿記録 / 記録) 延長[ソースを編集] このページは以下にある投稿ブロック依頼の議論を保存したものです。さらなる議論が必要な場合は當該ページのノートページで行ってください。このページは編集しないでください。 注意: あなたが投稿ブロック依頼を提出しようとしてこのページを見ている場合は、依頼へのリンクを Wikipedia:投稿ブロック依頼/利用者名 (日付または依頼回數) のように書き換え、新しい依頼ページを作ってください。新しい依頼ページでは、過去の議論を參考にできるよう、該當の古い依頼ページへのリンクを作成してください。 議論の結果、無期限ブロック に決定しました。 被依頼者は、アルトクールさんより複數の記事における過度の編集合戦を理由として1週間の投稿ブロックとなっています。被依頼者の投稿履歴を見ると編集合戦は元より、様々な不適切な編集を行っていることが窺えます。劉暁波においては何度も指摘されているにも関わらず、人物に敬稱を付與したり(特別:差分/64850640、特別:差分/64852041、特別:差分/64868824ほか)特定の文言に書き換えたりする編集(特別:差分/64881834、特別:差分/64917370、特別:差分/64924620、特別:差分/64926689、特別:差分/64929332、特別:差分/65014865ほか)を繰り返し、獨自研究を幾度も掲載しています。また、この際に出典や要出典タグを無斷で除去する荒らし行為も行なっているようです(特別:差分/65015578、特別:差分/65015742、特別:差分/65020161、特別:差分/65027454ほか)。更に、要約欄では「①重大な事実誤認②リンク先の中身読めずか、矛盾する內容の記入❸結果的には、當該條項編集に不可欠な知識欠く、編集に、」(特別:差分/65027454)や「❸結果的には、當該條項編集に不可欠な知識欠く、當該編集者は當該編集に向いていない。」(特別:差分/65027756)といった個人攻撃を連発しています。南京事件 (1937年)においても要約欄へ「通州事件は日本軍影響のもとに置かれた親日武裝の叛亂、中國軍の組織的な武力行使ではない」(特別:差分/65053073)と通説から離れた獨自の見解を記載しており、常習性が認められます。これについて指摘すると、同じように要約欄において「認めない。史実を作ったではない、伝えることだ」(特別:差分/65053989)と述べ、自分の意見を曲げないことを表明されました。ノート:劉暁波では色々と理屈を並べた後に「これから、當該編集者の編集內容を無視することを決め、ペキンの一黨獨裁を弁護する聲は日本にどれだけ強いのを記述するほうがwikiにとって意義もっと大きい。」と対話拒否を宣言し、Wikipediaの目的外利用も示唆しました。既に過度の編集合戦によって1週間の投稿ブロックとなっていますが、以上のことから期間の延長を依頼します。--変な人ではない(會話) 2017年8月8日 (火) 12:45 (UTC) 審議[ソースを編集]

延長 (期間:無期限) 依頼者票。--変な人ではない(会話) 2017年8月8日 (火) 12:45 (UTC)
延長 (期間:期限を定めず) 被依頼者の会話ページでの発言を見る限り、被依頼者の問題行動が短期間で改善されるとは判断できません。また、被依頼者の編集こそ Wikipedia の記事の質を落とすものであると考えます。よって、現時点においては「何が問題とされたのか理解し、反省し、改善できるまで」被依頼者には強制的に編集から離れていただくほかないものと考えます。--森藍亭(会話) 2017年8月10日 (木) 09:14 (UTC)
コメント 現在、ブロックを実施した管理者の会話ページが中国系ISPにより荒らされていますが、その内容と被依頼者のコメント[1]から、両者に強い関連性が認められます。--森藍亭(会話) 2017年8月10日 (木) 13:38 (UTC)
延長 (期間:無期限) 被依頼者の会話ページでの発言より、JAWPの利用者の意見に完全に納得できないと判断します。--Lanwi1(会話) 2017年8月10日 (木) 13:06 (UTC)
延長 (期間:無期限) 依頼者によってこちらの利用者は改善することができなさそうなので無期限に編集から離れたほうがおすすめします。Alex Shih(会話) 2017年8月10日 (木) 13:37 (UTC)
延長 (期間:無期限) おそらく機械翻訳で編集しており、日本語版へのご参加は難しいものと思います。--切干大根(会話) 2017年8月11日 (金) 13:48 (UTC)
延長 (期間:無期限) 中国語版の会話ページzh:User talk:废科举でもメンテナンス用テンプレートの除去などで注意を受けているようです。ブロックを実施した管理者の権限を制限すべきと主張しており反省の色が見られないこと、十分な対話やガイドライン読解が可能なだけの日本語力があるか疑問であること、母語であろう中国語版でも注意を受けていることなどを考慮すると、方針を理解できるまで無期限のブロックが妥当と考えます。--SilverSpeech(会話) 2017年8月12日 (土) 06:59 (UTC)
延長 (期間:無期限) 編集傾向は根本的に目的外利用と認るに足り得、また同時に当面の間は思想的にも技術的にも、jawpに求められるラインまでの改善は見られないものと考え得ます。--Hman(会話) 2017年8月13日 (日) 16:47 (UTC)
延長 (期間:無期限) 被依頼者の問題点についてはすでに語り尽くされた感があるので特に附する意見はありません。--Purple Quartz(会話) 2017年8月13日 (日) 19:44 (UTC)
延長 (期間:無期限) 現在でも執拗に自分の版へのリバートを行っておりますゆえ、早期での対応が必要と考えます。--禮旺(会話) 2017年8月18日 (金) 06:37 (UTC)
コメント 再び本日より1週間の裁量ブロック(本文中のスタイル破壊等)を行っていますが、この延長依頼の基となったブロックを行っている管理者であるため、この依頼のクローズは行いません。審議は続行してください。別の管理者によるこの依頼のクローズを妨げるものではありません。--アルトクール(会話) 2017年8月18日 (金) 09:28 (UTC)

(対処)無期限ブロックといたしました。--Muyo(會話) 2017年8月18日 (金) 15:14 (UTC) 上の議論は保存されたものです。編集しないでください。新たな議論は新しく依頼ページを別名で作って行ってください。

  1. ^ 「南京に派遣された16師団経理部の小原少尉の日記によれば、310人の捕虜のうち、200人を突き殺し、うち1名は女性で女性器に木片を突っ込む(通州事件での日本人殺害で行われた方法)と記し、戦友の遺骨を胸に捧げて殺害していた日本兵がいたと記した。」 秦 (2007) p121
  2. ^ 秦 (2007) p.196-198。
  3. ^ 「南京に派遣された16師団経理部の小原少尉の日記によれば、310人の捕虜のうち、200人を突き殺し、うち1名は女性で女性器に木片を突っ込む(通州事件での日本人殺害で行われた方法)と記し、戦友の遺骨を胸に捧げて殺害していた日本兵がいたと記した。」 秦 (2007) p121
  4. ^ 秦 (2007) p.196-198。
  5. ^ 「南京に派遣された16師団経理部の小原少尉の日記によれば、310人の捕虜のうち、200人を突き殺し、うち1名は女性で女性器に木片を突っ込む(通州事件での日本人殺害で行われた方法)と記し、戦友の遺骨を胸に捧げて殺害していた日本兵がいたと記した。」 秦 (2007) p121
  6. ^ 長谷川啓之「南京」「現代アジア事典」文眞堂, 2009
  7. ^ David・M・Kennedy,The Horror,The Atlantic Monthly 281 (4): pages 110–116,April 1998.塩谷紘訳 デビッド・M・ケネディ「南京虐殺はホロコーストではない」『諸君!』平成10(1998)年8月號
  8. ^ Kennedy(1998)は「南京虐殺事件の背景について萬人が納得するような説明はいまだなされていない」とする。
  9. ^ 英文記事資料あり The Nanjing Atrocities Reported in the U. S. Newspapers, 1937-38
  10. ^ 1月10日號「ライフ」P.50 「The Camera overseas The Japanese Conqueror brings A Week of Hell to China」、5月16日號「ライフ」P.13「These Atrocities Explain Jap Defeat」
  11. ^ David・M・Kennedy, The Horror :Should the Japanese atrocities in Nanking be equated with the Nazi Holocaust?(ザ ・ホラー:南京で行った日本人の残虐行為はナチスのホロコーストと同一視されるべきか?). The Atlantic.com. [20170808]. 
  12. ^ 12.0 12.1 EXPOSING THE RAPE OF NANKING, NEWSWEEK STAFF ON 11/30/997 AT 7:00 PM
  13. ^ 秦 (2007) p.196-198。
  14. ^ 「南京に派遣された16師団経理部の小原少尉の日記によれば、310人の捕虜のうち、200人を突き殺し、うち1名は女性で女性器に木片を突っ込む(通州事件での日本人殺害で行われた方法)と記し、戦友の遺骨を胸に捧げて殺害していた日本兵がいたと記した。」 秦 (2007) p121
  15. ^ 秦 (2007) p.196-198。
  16. ^ 「南京に派遣された16師団経理部の小原少尉の日記によれば、310人の捕虜のうち、200人を突き殺し、うち1名は女性で女性器に木片を突っ込む(通州事件での日本人殺害で行われた方法)と記し、戦友の遺骨を胸に捧げて殺害していた日本兵がいたと記した。」 秦 (2007) p121
  17. ^ 秦 (2007) p.196-198。
  18. ^ 「南京に派遣された16師団経理部の小原少尉の日記によれば、310人の捕虜のうち、200人を突き殺し、うち1名は女性で女性器に木片を突っ込む(通州事件での日本人殺害で行われた方法)と記し、戦友の遺骨を胸に捧げて殺害していた日本兵がいたと記した。」 秦 (2007) p121
  19. ^ 例えば、中國系アメリカ人作家アイリス・チャンの著作ザ・レイプ・オブ・南京についてのエッセーでは、ピューリッツァー賞受賞者の米國人歴史學者デビッド・M・ケネディは、ナチスドイツが行ったホロコースト事件の原因に関する分析に見られるような國策、文化及び國民性との関連性までの指摘が、アイリス・チャンの研究には足りないのではないかと主張した一方、西洋諸國では南京大虐殺事件自體の存在を事実として當時から一貫して共有してきたと明示しているDavid・M・Kennedy, The Horror :Should the Japanese atrocities in Nanking be equated with the Nazi Holocaust?(ザ ・ホラー:南京で行った日本人の残虐行為はナチスのホロコーストと同一視されるべきか?). The Atlantic.com. [20170808]. 
  20. ^ 中國系アメリカ人作家アイリス・チャンの著作ザ・レイプ・オブ・南京についてのエッセーでは、ピューリッツァー賞受賞者の米國人歴史學者デビッド・M・ケネディは、ナチスドイツが行ったホロコースト事件の原因に関する分析に見られるような國策、文化及び國民性との関連性までの指摘が、アイリス・チャンの研究には足りないのではないかと主張したDavid・M・Kennedy, The Horror :Should the Japanese atrocities in Nanking be equated with the Nazi Holocaust?(ザ ・ホラー:南京で行った日本人の残虐行為はナチスのホロコーストと同一視されるべきか?). The Atlantic.com. [20170808]. 
  21. ^ 中國系アメリカ人作家アイリス・チャンの著作ザ・レイプ・オブ・南京についてのエッセーでは、ピューリッツァー賞受賞者の米國人歴史學者デビッド・M・ケネディは、ナチスドイツが行ったホロコースト事件の原因に関する分析に見られるような國策、文化及び國民性との関連性までの指摘が、アイリス・チャンの研究には足りないのではないかと主張したDavid・M・Kennedy, The Horror :Should the Japanese atrocities in Nanking be equated with the Nazi Holocaust?(ザ ・ホラー:南京で行った日本人の残虐行為はナチスのホロコーストと同一視されるべきか?). The Atlantic.com. [20170808]. 
  22. ^ 日本の制止実らず=中国申請の「南京」認定-ユネスコ記憶遺産. 時事通信. 2015-10-10 [2015-10-14] (日語). 
  23. ^ 23.0 23.1 23.2 引用錯誤:沒有為名為miverd的參考文獻提供內容
  24. ^ 占領前文書焼却を指示…元法相 奥野誠亮さん 102. 読売新聞. [20170818]. 
  25. ^ 中國系アメリカ人作家アイリス・チャンの著作ザ・レイプ・オブ・南京についてのエッセーでは、ピューリッツァー賞受賞者の米國人歴史學者デビッド・M・ケネディは、ナチスドイツが行ったホロコースト事件の原因に関する分析に見られるような加害者側の國策、文化及び國民性との関連性までの指摘が、アイリス・チャンの研究には足りないのではないかと主張したDavid・M・Kennedy, The Horror :Should the Japanese atrocities in Nanking be equated with the Nazi Holocaust?(ザ ・ホラー:南京で行った日本人の残虐行為はナチスのホロコーストと同一視されるべきか?). The Atlantic.com. [20170808].