平和塔 (广岛市南区)
34°22′23.60″N 132°27′50.23″E / 34.3732222°N 132.4639528°E
外部图片链接 | |
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广岛县立文书馆所藏战前明信片 | |
广岛宇品凯旋纪念碑 |
平和塔(日语:平和塔/へいわとう Heiwatō),又称鹰纪念碑(鷹の記念碑/たかのきねんひ Taka no Kinenhi)[1],原称日清战争凯旋碑(日清戦争凱旋碑〔日淸戰爭凱旋碑〕/にっしんせんそうがいせんひ Nisshin Sensō Gaisenhi),位于日本广岛县广岛市南区皆实町,是纪念日本甲午战争胜利的碑。
概要
编辑1896年(明治29年)竣工,高16米,顶部有金属制的黑鸢(金鵄[注 1])雕像[3],侧面以水泥做成框状[4],镌有“平和塔”三字。
现主干道宇品通(国道487号)纵贯皆实与宇品,贯通广岛电铁宇品线,沿着其西侧的宇品御幸通(市道南4区557号线),进入皆实町绿地,广岛南警察署皆实交番南侧、皆实西部集会所[注 2]东侧就是平和塔。公园的分岔口侧有刻着“东松原停车场通”的石制旧路标[6]。稍往南则是千田庙公园。
历史
编辑御幸通是1885年(明治18年)明治天皇行幸广岛时,以广岛为起点,通向宇品港(今广岛港)的道路,御幸桥亦得名于此[7]。当时此路是宇品的主干道,南端终点种有御幸松。
1888年(明治21年),第5师团于广岛成立。1894年(明治27年)甲午战争爆发,第5师团与第3师团一同成为第1军先锋[3],宇品港成为后勤基地,许多士兵经过御幸通前往战场。
1895年(明治28年),日本甲午战争胜利后,全国各地建了纪念碑、凯旋门、凯旋碑、忠魂碑等战争纪念建筑[3]。广岛也隆重庆祝第5师团归来,在御幸通建了临时凯旋门[1],西练兵场(今中区基町广岛城南侧广岛市民球场旧址至广岛县厅舍一带)角落建了炮弹状的“日清战胜纪念碑”,高约20米[3]。凯旋碑也于此时以来自中国地方5县的捐款建造[8]。
1896年(明治29年),“日清战争凯旋碑”依靠军、政、民捐款竣工[9]。也有资料将名称记作“出云石见隐岐备中备后安艺周防长门八国联合凯旋碑”(出雲石見隠岐備中備後安芸周防長門八カ国連合凱旋碑)[10]。建筑费4988圆72钱4釐[10]。之所以选择此地,是因其为西北向道路与北向道路的分岔口——御幸通左转,越过御幸桥是西北向道路,通往广岛大本营与第5师团司令部所在市中心;御幸通直行,是北向道路,从明治天皇临时住所所在比治山通往当时以东京为起点铁路网西端广岛站[6]——当时无建筑,易于观望[9]。当时也是比治山通与御幸通的分岔口[11]。
太平洋战争期间,遵照《金属类回收令》,市内公共设施金属部分陆续清除,但碑顶的金属并未清除。
1945年(昭和20年),广岛市原子弹爆炸。凯旋碑距爆心投影点约2.5公里,但未毁坏。而西练兵场的纪念碑由于靠近爆心投影点[12]而完全毁坏[3]。
1947年(昭和22年),日本人畏于驻日盟军的谴责,用水泥涂去“凯旋碑”,改刻“平和塔”字样[1][13][注 3]。
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1930年(昭和5年)左右的广岛市地图。右下可见宇品的御幸通与御幸桥。御幸桥东延伸出两条道路,与御幸通构成三角形,其下顶点附近是凯旋碑的建造地点
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1974年(昭和49年)的御幸桥,右下可见皆实町绿地基于日本国土交通省之国土画像情报(彩色航拍)制作
注释
编辑参考文献
编辑引用
编辑- ^ 1.0 1.1 1.2 【平和塔】(鷹の記念碑). こむねっとひろしま. [2014-05-12]. (原始内容存档于2014-05-12).
- ^ 2.0 2.1 ヒロシマの今から过去を见て回る会,20. 日清戦争凱旋碑.
- ^ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 西尾 2006,第71—88页.
- ^ arch-hiroshima 2006,#3:全然平和の使者っぽくない。(戦時中の金属供出を免れ、往事の姿を保つ).
- ^ 別表 (第2条関係). 広島市消防団の組織に関する規則・規則第58号. 广岛市. 1955-11-10 [2021-12-16]. (原始内容存档于2021-12-16).
- ^ 6.0 6.1 arch-hiroshima 2006,#4:「東松原停車場通」とある。.
- ^ 宇品御幸通りと御幸松記念. こむねっとひろしま. [2014-05-12]. (原始内容存档于2014-05-13).
- ^ 8.0 8.1 被爆建造物调查研究会 (编). 平和塔. ヒロシマの被爆建造物は語る. 广岛和平纪念资料馆. 1996年: 210.
- ^ 9.0 9.1 広島の歴史的風景 (PDF). 广岛县立文书馆. [2014-05-12]. (原始内容存档 (PDF)于2016-03-04).
- ^ 10.0 10.1 志熊直人. 广岛县厅 , 编. 広島臨戦地日誌. 1899: 773–776 [2014-05-12]. (原始内容存档于2022-03-20).
- ^ 薄田 1973,第117页.
- ^ 藤井 1925,産業奨励館の横から相生通りに出て、日清戦勝記念碑へ歩き、ピクニックをする親子の姿.
- ^ 令和元年度 第2回収蔵文書の紹介展 築港130周年 ー広島港のあゆみ (PDF) (新闻稿). 广岛县. 2019 [2021-02-05]. (原始内容 (PDF)存档于2022-05-22).
- ^ 広島市皆実町6丁目にある平和塔について知りたい。日清戦争の戦跡とも聞いた。(広島県立図書館). 国立国会图书馆. [2022-05-22]. (原始内容存档于2022-01-10).
- ^ 广岛县 (编). 廣嶋臨戦地日誌. 溪水社. 1984: 774.
- ^ 広島市市民局文化スポーツ部文化財課 (编). 凱旋碑. 日清戦争と広島城. 广岛市文化财团广岛城. 2009: 42.
- ^ arch-hiroshima 2006,#2:平和塔の文字が読める。.
来源
编辑- 薄田太郎. 宇品町界わい. 薄田纯一郎 (编). がんす横丁. 続々. 广岛: たくみ出版. 1973: 103—117. doi:10.11501/9572792. NCID BA47641829.
- 西尾林太郎. 碑・玩具・版画に表現され、記録された日清戦争 ―新たな教材と資料を求めて― (PDF). 现代社会研究科研究报告 (爱知淑德大学). 2006-03, 1 [2014-05-12]. ISSN 1881-0373. NAID 120005038053. (原始内容存档 (PDF)于2014-05-12).
- 平和塔/旧日清戦争凱旋碑. 広島の建築 arch-hiroshima. 2006-05-07 [2021-12-16]. (原始内容存档于2022-05-31).
- 20. 日清戦争凱旋碑. ヒロシマの今から過去を見て回る会. [2021-04-03]. (原始内容存档于2011-07-11).
- 藤井重一. 「中区大手町など」〈「[1]広島市家族同伴」より〉. ひろしま戦前の風景. 中国放送. 1925-09-15 [2021-04-03]. (原始内容存档于2017-05-18).